今月のお買いもの、8月に購入したものをご紹介しています。今回はオケゲムのレクイエムとミサ曲を取り上げます。ナクソスから出ているもので、ホルテン指揮、ムジカ・フィクタの演奏です。ディクスユニオン新宿クラシック館で確か700円で購入しました。
それにしても、こんな素晴らしい作品と録音を、中古市場に放出してしまうなんて・・・・・なんと奇特な方がいらっしゃるのでしょう!感謝です。
まず、オケゲムと言う人の説明から参りましょう。
ヨハネス・オケゲム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B1%E3%82%B2%E3%83%A0
15世紀ルネサンス期の、ベルギー出身のフランドル楽派の作曲家です。このフランドル楽派というのは、音楽史上重要でして、バロックを用意した人たちとして、真っ直ぐ現在のクラシック音楽に繋がるものなのです。
フランドル楽派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E6%A5%BD%E6%B4%BE
以前、私もその一人であるジョスカン・デ・プレをご紹介しています。
マイ・コレクション:ジョスカン・デ・プレのミサ曲
http://yaplog.jp/yk6974/archive/599
私はジョスカンに触れるまで、ルネサンスの楽曲は遅れたものというイメージをずっと持っていました。確かに、それは一面的には間違っていません。技術史としての楽器の発達という観点からは、言えることだからです。しかし私が間違っていたのは、それを技巧的な点でも劣ると勘違いしていたことなのです。
それをさらに明確に示したのが、このCDであると言えましょう。私にとって、オケゲムの作品に触れるのはこれが初めてだったのですが、ルネサンスは宝の山という、ジョスカンを取り上げた時のコメントを、今回も使わざるを得ません。
編集上、まずは簡単なポリフォニーであるモテット「けがれなき神の御母」(ウィキでは"Intemerata Dei mater"とあるものです)を第1曲に持ってきています。さらに第2曲目がレクイエム。これも、ポリフォニーの美を楽しませてくれます。
重要なのは、最後の第3曲目である「ミサ・プロラツィオ―ヌム(種々の比率によるミサ曲)」なのです。なにか説明してあるサイトがあるのではないかと探してみたところ、ありました。
♪バッハ・カンタータ日記 〜カンタータのある生活〜
バッハの源流への旅・その4〜オケゲム「プロラツィオーヌム」
http://nora-p.at.webry.info/200611/article_18.html
このサイトで重要な点は、いきなり冒頭に出て来ます。
「これはかんたんに言うと、
一つのメロディが、同時に異なる比率の長さで演奏されてカノンを形成し、(これで2声)
しかも、二つのまったく異なるメロディに関して、そのすべてが同時進行してゆく、(これで4声)
という、書いてるだけで恐ろしいものです。」
え、どういうこと?とおっしゃるかもしれません。百聞は一見にしかず。このサイトはありがたいことに、楽譜が載っており、しかもカーソルを持ってきてクリックしますと拡大することが出来る点です。その楽譜を見てみますと・・・・・
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/710/90/N000/000/000/118257225062316215005.jpg
楽譜は4段になっていますが、旋律的には2つに分かれるのが分かります。ではどのような違いがあるのかと言えば、音の長さ、なのです。この楽譜は第1楽章キリエの冒頭になりますが、アルトはソプラノの1.5倍、そしてバスもテノールの1.5倍の長さになっていて、それが音楽として続いて行くという訳なのです。
ですから、一見すればシンプルに見えますが、これは演奏するのは難しいだろうなあと思います。そしてこれこそ、まさしくルネサンスの楽曲らしい曲とも言えます。
バロックや古典派など、ふつう私たちがクラシックで聴いている楽曲は、ホモフォニーと呼ばれ、和声を重視します。ところがポリフォニーでは、各パートが独立しており、和声が時として崩れることがあります。しかし、だからといって不況和音が鳴り響くというわけではなく、和声としても自然なものになっている点が、素晴らしいのです。それが、ルネサンス音楽の魅力でもあります。
このオケゲムの「ミサ・プロラツィオ―ヌム」は、まさしくさまざまな音の「比率」を楽しむことで、ルネサンスらしい音楽を形成しているのです。そこが特長であり、また魅力となっているのです。
さて、この技法、どこかで見たことありませんか?上記サイトの主様だけではなく、実はすでにこのブログでも取り上げているのです。だからこそ、私はなるほど〜と膝を打ったのです。そう、大バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハがフルートとのトリオ・ソナタでやった技法なのです。
音楽雑記帳:「フルート・デュオ・コンサート」を聴いての雑感
http://yaplog.jp/yk6974/archive/379
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F
ヴィルヘルム・フリーデマンはきちんと、父から教わったことを覚えていたのですね・・・・・と、父大バッハが教えたかどうかはわかりませんが、少なくとも、ルネサンスから受け継がれたものは息子にも伝えていたことでしょう。オケゲムがこのミサ曲でやったことを、フリーデマンはバロック期にバロック音楽としてやったわけなのです。
なるほど、フリーデマンはこれを知っていたんだな、と・・・・・そして、それをもって父を超えようとしたと考えれば、なぜこんな奇抜なことをしようとしたのかが理解できます。いや、奇抜だなんて言ってはいけないんです。フリーデマンにしてみれば、「いや、かんちゃんさん、すでにオケゲムがやっていますよ。私はその伝統を踏まえたにすぎません」と言われることでしょう。
やはり、ルネサンスは「宝の山」です。もっと聴かなければ、音楽家に対して失礼に当たるような気がします。
演奏面ですが、実はこのCD、上記サイトで紹介されているものと全く同じです。そこでも評価されていますが、これだけ技法的に凝っているにも関わらず、温かいものを感じるのです。では、演奏は熱いのかといえば、そうではありません。あくまでも冷静で、いわゆる私が名演と言うときの決まり文句である「情熱と冷静の間」のバランスが絶妙なのです。
こういったこった技法を持つがゆえ、現代音楽並みに頭を使わないと演奏できない作品で、情熱と冷静の間のバランスを取ることは大変難しいのです。技巧面に偏ってしまうか、もしくは技巧面を全く無視し、情熱だけで突っ走ってしまうかになってしまうからです(で、プロは無鉄砲に突っ走ることはないですから大抵前者となります。後者はアマチュアが陥りがちな失敗です)。にも関わらず、バランスのとれた演奏ができるのは、実力が伴わないと難しいのです。
その意味で、私はサイト主さん同様、「ナクソス侮るべからず」と言いたいと思います。これは以前から申し上げてはいますが、伊達にブリリアントの倍の値段しません。それなりに隠れた実力派を発掘し、世に問うているのは私が知る限り、1200円等値段で実現できているのはナクソスだけです。
それにしても、指揮者はもともと現代音楽の作曲家というので、なんか納得している自分がいます。現代音楽は少なくとも声楽曲においては、ルネサンスやバロックへ回帰しているからです。それはおそらく、現代音楽の調性という問題だけではなく、ロジックの組み立てという点で、共感できるものを作曲家が持っているからではないでしょうか。
それを聴衆が知っているのと知らないのとでは、音楽の未来も異なってしまうような気がしてなりません。
また一人、もっと聴きたい作曲家が増えました。
聴いているCD
ヨハネス・オケゲム作曲
けがれなき神の御母
レクイエム
ミサ・プロラツィオ―ヌム
ボ・ホルテン指揮
ムジカ・フィクタ
(Naxos 8.554260)
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