かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ 作品集8

今月のお買いもの、平成28年1月に購入したものをご紹介しています。シリーズでカール・フィリップエマヌエル・バッハの作品集を取り上げていますが、今回はその第8集を取り上げます。

この第8集では実に興味深い作品が収録されています。それは、マニフィカートです。

なぜ、マニフィカートが興味深い作品であるのか。もう一度、ウィキとピティナの生涯を説明したページのURLを引用しておきましょう。

カール・フィリップエマヌエル・バッハ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

バッハ, カール・フィリップ・エマヌエル Bach, Carl Philipp Emanuel [ ドイツ ] 1714 - 1788
http://www.piano.or.jp/enc/composers/308/

いずれの説明でも、カール・フィリップが活躍したのはドイツ国内です。それはつまり、プロテスタントが強い地域であったことを意味します。なのになぜ、カトリックのマニフィカトが?

以前、大バッハであるカールの父、ヨハン・セバスティアンのミサ曲ロ短調でも説明したことがあったかと思いますが、プロテスタントであっても、ミサの一部が演奏されたりすることがあるのです。そしてこのマニフィカト、実はそのヨハン・セバスティアンも作曲しています。

マニフィカト (バッハ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%88_(%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F)

しかも、調性もニ長調と父と同じなのです。ですから興味深い作品なのです。つまり、多感様式のなかで作曲されたのですが、多分に父を意識した作品であるという事なのです。

作曲されたのは1749年。ですから、バロック的な色合いも強い作品ですが、多感様式も見え隠れします。父ヨハン・セバスティアンの死ぬ1年前という時期で、明らかにバロックから前古典派へと移りゆく時代に作曲されたものですが、父存命であるからこそ、父の作品をいしきしたのかもしれません。

この1749年という時期は、ヨハン・セバスティアンも体調が悪く、あまり音楽活動ができていません。その代わりを息子達が務めた可能性は学者の中では常に言われていることですし、実際勤めている史料もいくつか見つかっています。断定はできませんが、カール・フィリップも父に成り代わり様々な演奏会に出て居たり、作曲をしたりしていた可能性は否定できません。

マニフィカートは、カールがベルリン時代に作曲した作品で、このベルリン時代には様々なジャンルの作品も作曲されています。当時のベルリンは今のように中欧の中心としての輝きはなく、むしろ文化的には地方でした。そのため、ライプツィヒでヨハン・セバスティアンがやっていたことをカールに要求したと考えるのは自然でしょう。あるいは父とライプツィヒや他の都市で行っていた音楽活動の評判を聴いて、ベルリンでもと要求されたとという可能性もあるでしょう。

そう想像できるのはやはり、このマニフィカトがかなりバロックしている作品であると言う点です。時代的には多感様式が全面に押し出されてもいいはずですが、父ヨハン・セバスティアンのような作品を要求された・・・・・となれば、この同じ調性や編成の近似性は納得できます。となれば、当然ですがカールは父のマニフィカトを意識せざるを得ません。

それを聴衆に意識させるためなのか、わざわざカップリングがチェロ協奏曲変ロ長調Wq171となっているのです。完全に多感様式で書かれたこの作品はWq215の4年後である1753年に作曲されています。それは父ヨハン・セバスティアンがなくなって3年がたっていることを意味し、時代は確実にバロックから新しい時代へと変化していることを意味します。本来、父ヨハン・セバスティアンが死ぬ前後の時期はさすがに多感様式になっていることが多いはずなのですが、そこにまるでバロック都市化見えないようなマニフィカートが存在している・・・・・そこの妙味を味わってもらいたいという編集者の意図が見え隠れします。

ただ、一見すればバロックですが、随所に多感様式も仕込まれています。冒頭のマニフィカトの部分はまるでモーツァルトの初期作品のようです。その点では、息子カールは必死に父に負けまい、父に似せて作ったとは言わせないという意識が見え隠れします。最期のアーメン以外は殆ど対位法は用いられていないのもそれを証明しています。むしろ、重唱が使われているのに気が付かされます。その点では、バロック的でもあり、多感様式でもあるという、カールの作曲技法の確かさが光る作品だと言えます。

このアルバムはその意味では、カールの作曲技法が決して人まねではなく、独創的であったことを示すものであるとも言えるでしょう。父とは同じ音楽の世界で生きたとしても、しっかりと違う道を歩もうとしていた・・・・・それが見て取れます。生涯の後半では、まるでウィーンに出た後のモーツァルトや、ベートーヴェンのように自立した作曲家を目指したことからも、新しい時代を切り開こうとしたパイオニアとしての評価もされるべきではないかという問いかけとも言えるかもしれません。

演奏面では、合唱がすこし残念なのです。発声が多少ぶら下がり気味かなあという気がします。少年合唱団を使うことでバロック的な雰囲気を出したかったのだと思いますが、ボーイ・ソプラノが少し高音部で苦しいんですよね。それだけ難しい作品だと言えるでしょうが、例えばBCJのようにソプラノが女声だったら、この作品はもっと輝きを増したはずなのにと思うと、残念です。もしかすると、1749年という時代であれば、ソプラノは女声だったかもしれません。そのあたりの時代考証をもう少し丁寧にしたうえで収録に臨んだ方がよかったのではないかな〜と思います。これは海外収録だからと言って、BCJを聴き続けてきた私としては異を唱える点です。

かなり学術的過ぎたかも知れないなあと思います。そこまで学術的でなくてもいいのになあと思います。もしこの作品をBCJが演奏したら、一体どうなるのか?ワクワクします。是非とも実現してほしいですね〜。ヨハン・セバスティアンは一巡していますので、古典派以後は息子に任せ、父である雅明氏には是非とも大バッハの息子達の声楽作品を収録してほしいなあと思います。

鈴木雅明氏であれば、学術的アプローチをしつつ、職人として実際の演奏ではどう修正すればいいのかを考える人であるからです。ボーイソプラノでは発声がきついということは、それだけ時代的に新しい作品であることを意味しています。それはそれで聴衆に認識させる効果は持っているかもしれません。

であれば、これからの時代はこの演奏を基準として、もっと高みへと登っていくことが重要であり、その意味でも、カール・フィリップの作品はわが国においてもっとコンサート・ピースに加えられるべきだと思いますし、私達聴衆も求めていくべきかと思います。




聴いているCD
カール・フィリップエマヌエル・バッハ作曲
マニフィカト ニ長調Wq215
チェロ協奏曲変ロ長調wq171
エリィ・アメリング(ソプラノ)
マウレーン・レアーネ(アルト)
テオ・アルトマイヤー(テノール
ローランド・ヘルマン(バス)
アンジェリカ・マイ(チェロ)
テルツ少年合唱団
フランツヨゼフ・メイヤー指揮
コレギウム・アウレウム
(deutsche harmonia mundi 88843021622-8)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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