かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:かんらん山上のキリスト

今回のマイ・コレクションは、ベートーヴェンのオラトリオ「かんらん山上のキリスト」を取り上げます。クヌド・ヴァド指揮、トルン室内管弦楽団他の演奏です。

クヌド・ヴァドの演奏については、以前モツ・レクで取り上げました。

ykanchan.hatenablog.com



これを聴いていたため、このCDを選んだ・・・・・といいたいところですが、発声が独特なのは実は同じなのです。モツレクでそれを知っていたからこそ、実はあまり気が乗らなかったCDではあるのです。

このCDを買ったのは、当時入っていた合唱団で最終合唱を歌うことになったためで、そのレファレンス用として銀座山野楽器へ買いに行きましたら、国内盤が全くないという・・・・・

仕方なく、このCDを買い求めたのを覚えています。え、本当に他になかったのかって?ピリオドではあったように思うのですが、モダンではなかったとはっきりと覚えています。実際には以下にご紹介するウィキの説明の通り、モダンでもいくつか出ているようですが、当時ネットでそこまで検索できませんでしたから・・・・・

さて、この「かんらん山上のキリスト」という曲は、ベートーヴェンが作曲したオラトリオの一つです。オリーブ山での祈りから捕縛、そして磔刑までを簡潔に表した曲です。

オリーヴ山上のキリスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B4%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

ウィキでは「オリーブ山上のキリスト」と表記されていますが、どちらでもあっています。かんらんとは日本における通称ですから。

オリーブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96

ただ、本来は同一ではないので、ウィキの表記が正しいかと思いますが、私はかんらんの名まえを使いたいと思います。この名前のほうがわが国では通りがいいので・・・・・

それがいいのかは、実は疑問に思っています。ウィキの通りにすることを広めるべきかと思いますので、多くの人はぜひとも「オリーブ山上のキリスト」で表記してほしいと思います。

かんらんの名まえの通りそのまま使うのということは、我が国の宗教音楽軽視の流れに沿うことだからです。このウィキの説明はきちんとそれに警鐘を鳴らしている点で、評価できると思います。

ウィキの説明で私が注目するのは、初演時、交響曲第2番やピアノ協奏曲第3番という現在とても評価が高い曲が並んでいる中で、一番評判だったのがこの「かんらん山上のキリスト」だったという点です。いったいなぜでしょう?

それは伝統的に、声楽曲こそ至上であるという意識がヨーロッパにあるからです。ベートーヴェンがこの曲を作曲したのは明らかにその流れに沿うものです。その一方、この曲では新しいことをやっています。それはレチタティーヴォをまるでアリアのように歌わせる点です。

ウィキから転記しますが、この曲は以下の6曲からなり、さらに細部は15の部分からなっています。

第1曲 序奏 - レチタティーヴォ - アリア
第2曲 レチタティーヴォ - アリア - 天使の合唱
第3曲 レチタティーヴォ - 二重唱
第4曲 レチタティーヴォ - 兵士の合唱
第5曲 レチタティーヴォ - 兵士と使徒の合唱
第6曲 レチタティーヴォ - 三重唱 - 天使の合唱

私は最初、この曲はオラトリオのはずなのに、レチタティーヴォがないと思っていました。アリアと合唱がほとんどだなあ、と。しかし、いまよく聴きますとアリアだと思っていた部分は実はレチタティーヴォなのだと気付いたのです。そしてそれこそ、この曲の新しさなのですね。それで、ベートーヴェンのこの言葉がしっくりきます。

「キリストの声部を新しい声楽様式で処理することは誤りであった」

しかし、当時からいろんな批判があったにも関わらずこの曲が当時人気だったのは、市民革命の時代、まさしく人々が声楽に新しい様式を求めていたからにほかならないと思います。ベートーヴェンというスターが繰り出した新たな声楽曲、それがこの曲だったのです。

ただ、それ故に以後演奏されなくもなったのではと私は推理しています。ベートーヴェンの死後、ベートーヴェン楽聖として神格化されますが、彼以前の作曲家の再評価も進むからです。たとえば、同時代のロマン派を切り開いたウェーバーシューベルトという作曲家はハイドンモーツァルトを重んじていましたし、メンデルスゾーンはバッハのマタイ受難曲を掘り起こしました。その中で、ベートーヴェンのこの曲は逆に中途半端という烙印を押されてしまった、そう考えるに難くありません。

確かに、レチタチーヴォはヘンデルやバッハと比べればまるでモーツァルトの延長線上のように思われても仕方ありません。それは逆に、管弦楽、特に交響曲が重視されていく時代の変化でもありました。

つまり、この曲が演奏されない原因を作ったのは、ベートーヴェン自身でもあったという、何とも皮肉な結果なのです。

さて、演奏面もお話ししましょう。上記のエントリでも触れましたが、この曲ではアンサンブルは完璧です。ですから、下手という指摘は全く当たらないわけで、むしろ発声の独特さ、そして一部に散見される、いわゆる合唱でいう「ぶら下がっている」様子こそ、指摘されるべきだと思います。その点がないことも、我が国の合唱軽視、そして宗教音楽軽視の流れの最たるものだと思います。

この演奏が念頭にあったがため、実はモツ・レクでも下手であることにはそれなりの理由があるというように述べたわけなのです。いや、あのCDでもモツレク以外まできちんと聴いていれば下手という意見は出てこないはずなのです。アヴェ・ヴェルム・コルプスは実はモツレクよりも難しいのですから・・・・・

このCDを聴けばそれが誤りであることはもっと顕著であろうと思います。元合唱団員としては問題点はやはり「ぶら下がっている」発声であって、それ以外は完璧です。プロがぶら下がっている理由を推測するに、主に息をどのタイミングで吸わせているかによるでしょう。音の跳躍部分でそれが散見されます(特に最終合唱ソプラノ)、そこでの姿勢や息のすい方でぶら下がるかどうかはきまります。プロでは発声そのものがぶら下がることはあり得ないからです。ですので私は経験から、息を吸うタイミングだろうと推測するのです。

ということは、合唱指揮者に問題があるわけなのです。もちろん、それを指摘しない指揮者も問題ですが・・・・・

その「マネジメント」の点を指摘する人がいないのが、哀しいです・・・・・



聴いているCD
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
「レオノーレ」序曲第2番作品72
オラトリオ「かんらん(オリーブ)山上のキリスト」作品85
アン・ペーターセン(ソプラノ)
アダム・ズドゥニコウスキ(テノール
オレ・ストーフリンク・ラーセン(バス)
ソラヌス合唱団
クヌド・ヴァド指揮
トルン室内管弦楽団
(Classico 402)



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