今回の神奈川県立図書館所蔵CDは、カラヤンが振るシベリウスの交響曲第5番と第7番です。オケはベルリン・フィルです。
録音が60年代と、一番カラヤンとベルリン・フィルで名盤が多い時期でもあります。そしてこの時期に録音された名演の内の一つが、シベリウスです。
シベリウスがなくなったのは1957年ですが、この演奏はそのわずか10年後に録音されています。そもそも、カラヤンは存命中からシベリウスの交響曲はフィルハーモニアで録音しているほど、シベリウスの楽曲に関心を寄せていた指揮者です。
私も、初シベリウスはカラヤンでしたし、それが初カラヤンのCDでもありました。そんなこともあって、この音源をほぼ迷わず手に取った記憶があります。
この5番と7番をカップリングしているという点に、カラヤンの想いを感じます。シベリウスが第5番を作曲した時、すでに第7番までの交響曲を作曲する計画が頭の中にあったからで、独創性や楽章構成などにおいて、この二つには関連があります。
交響曲第5番 (シベリウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9)
交響曲第7番 (シベリウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9)
第5番は4つもしくは3つの部分からなる交響曲で、ウィキでは3楽章、書き写したブックレットでは4楽章となっており、その違いは第1楽章を一つととらえるかそれともベートーヴェンの「運命」のように、二つの楽章が一つになったと考えるかであり、いずれにしても二つの楽章が有機的につながるという点に特徴があります。一方、第7番は4つの楽章が完全に一つになり、まるでソナタ形式のようになっているのが特徴です。
この時期のベルリン・フィルと言えば、その正確なアンサンブルから音楽の細部が分かりやすいという点があります。それゆえに、この演奏でもどこで楽章が切り替わっていくかが分かりやすいのが素晴らしいと思います。もちろん、もっと幻想的な部分を押し出す演奏もありでしょうが、この構成上の特徴が分かりやすいのはありがたいことだと思います。
カラヤンと言えば、初心者向けだとよく言われますし、私も同感の部分があります。しかしだからと言ってつまらないのかと言えば、そんなことはないのです。このシベリウスに関しては、楽章構成に目を向けるような演奏は、なぜシベリウスはこういった手の込んだ楽章構成にしたのだろうという問いを、自らにするきっかけになるのです。
第5番は1915年に作曲され、第7番は1924年に作曲されました。第5番は第1次世界大戦のさ中に作曲され、フィンランド独立前後の混乱の中で改訂作業が行われて1919年に今の形になっています。その5年後、第7番が作曲されるという経緯です。
第5番を4楽章とするのか、それとも3楽章ととらえるのかで私は曲が持つ意味が変わってくるように思うのです。3楽章と言えば、たんなる古典回帰ではない場合、「自由」と表裏一体です。フランス風の交響曲が3楽章であるためで、フランス革命=自由というメッセージが込められていることが多いからです。ですから、その曲が4楽章であるのか3楽章であるのかは、20世紀の作品においては重要な点であるわけです。
ウィキの記述では、フィンランドの独立という「自由」を欲する願いが込められていることになりますが、それは音楽的には否定できないでしょう。確かに、民族的な音楽は当時のフィンランド情勢を考えればそこに独立の意思を認めないわけにはいきません。しかし、シベリウスの楽曲は、単に国粋主義的な音楽ではないのです。ブックレットで出ていたこの言葉が印象的です。
「シベリウスはフィンランドと世界の共通の市民で、彼の交響曲は、フィンランドの交響曲ではなく、フィンランド人が書いた世界の交響曲である」(コンスタント・ランバート、イギリスの作曲家・評論家)
そこには、たとえばドヴォルザークがアメリカで目指したような、所謂国民楽派としてだけでなくさらに普遍的な音楽という想いが詰まっているように思うのです。それが、この3楽章とも4楽章とも取れる楽章構成に現われているように思います。
第7番ではさらに、4つの楽章(あるいは部分というほうが適切かもしれません)が一つとなり、自由という視点はすでにありません。それはおそらく、すでにフィンランドが独立しているからだと考えることも可能です。そうなると、音楽には自由だの独立だのと言う勇ましい部分は影をひそめ、むしろ透明で幻想的な音楽が支配し始めます。そもそも、発表時は「交響的幻想曲」だったというのもうなづけます。
確かに、シベリウスの人生の内、半分はフィンランドが独立していない苦難の時代であるため、音楽にもその苦難が反映されていますが、作品全体では、決してそれだけではないのだということが、この2曲だけでもわかる点と、第5番と第7番が楽章構成において関連している点も、この2曲を聴き比べることでわかる点で、この演奏は格段に優れています。
シベリウスの音楽に対して、自らのイメージが正しいのかどうか、問い直すきっかけになった演奏です。
聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第5番変ホ長調作品82
交響曲第7番ハ長調作品105
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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