かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:BCJ バッハ カンタータ全曲演奏シリーズ5

今回のマイ・コレは、BCJのバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第5集です。

収録されているのは、第18番、第152番、第155番、第161番、第143番の5曲です。いずれもヴァイマールで作曲初演されたとされています(第143番は偽作の疑いもありますが)。大盤振る舞いですね〜

確かに、総演奏時間は78分と、とても長いです。

まず、第18番「天より雨下り、雪落ちて」です。1713年2月19日にヴァイマールで初演されました。なお、1724年にライプツィヒで再演されています。

内容としては、「種まく人」の喩なのです。

マルコ福音書 「種を蒔く人」のたとえの説明
http://blog.goo.ne.jp/miyaji9/e/f30ebc79d628947945ba273c0f7541db

いやあ、青年バッハらしい、とてもストイックな内容です。

しかし、この曲はその構造を見てみますと、いろんな実験をやっているものでもあります。バッハ事典の該当カンタータの説明では、こうありますので引用します。

「詩的形象の豊かなその台本に対して、セッコ様式からアリオーソ風のアコンパニャート(器楽伴奏つき)様式にいたるまで、さまざまなレチタティーヴォ書法を実験した。その意味でこのカンタータは、バッハの「レチタティーヴォ研究」ということが出来る」(P.47)。

とくにそれが顕著であるのが、第3曲目であると思います。この楽章はソリストが歌う祈願と合唱によるルターの連祷とが交互に入ってくるのが特徴で、このカンタータの中心楽曲です。

こういった点にも、バッハのこの曲への想いを感じます。

次に、第152番「出で立て、信仰の道に」です。1714年12月30日にヴァイマールで初演されました。え、年末・・・・・

その割には、信仰というものの捉え方を厳しく説くものなのですね。どれだけしっかりと信仰というものを持ち続けることが出来るのかがこの曲のテーマです。クリスマスにお祭り気分でなんていてはだめだとばかりの内容です。

では、どれだけ音楽として厳しいのかと言えば、これがむしろ優しいくらいなのです。特に、第3曲目のソプラノアリアは「歩みのリズム」とともに歌われるもので、バッハのカンタータでよく使われるリズムです。クリスマスというものが、かの地では単なる祝祭ではないということを私たちに突きつけます。

そういえば、お正月というものはそもそも、お祝いと言いますが何を祝うのでしょうか?みなさん、考えてみてはいかがでしょうか。

音楽的には、ヴィオラ・ダ・モーレが用いられる唯一の教会カンタータであることも注目点です。さらに、バスとソプラノの二重唱は、神の魂との対話であるとともに、その喜びを舞曲で表すという様式を用いています。こういったものはその後器楽曲に影響を与えていくものでもあるのです。

3曲目の第155番「わが神よ、いつまで、ああいつまでか」は1716年1月19日にヴァイマルで初演されました。再演は1724年1月16日に行なわれています。水を葡萄酒にかえた奇跡を取り上げていますが、苦悩の中で信仰を持ち続けることが大切であるということを説いた内容です。

え、どういうこと?と思うかと。水をブドウ酒に変えるというのはキリスト教ではよく知られた「奇跡」です。

ぶ ど う 酒
http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/1999msg/991010.htm

つまり、こういった奇跡が起こるには、各々が心にしっかりと信仰を持っていないと実現しませんよ、ということを言いたいわけなのです。それこそが、この曲で言いたいことなのです。

音楽的にはシンフォニアが使われていない点が注目です。当日、編成的に小さかったのかもしれません。合唱が最後にしか登場せず、それまではソリストと器楽だけです。非常にすっきりとした編成です。そのためなのか、この曲にはシンフォニアがついていません。どうやら、シンフォニアはかなり大きな編成の時の、大掛かりな曲の序曲という色彩が強いものと考えられます。

この点からも、なぜモーツァルト交響曲には3楽章が多いのかという点も、あきらかになるように思います。BCJはこういった点を常に考えさせてくれます。

4曲目は第161番「来たれ、汝甘き死の時よ」です。1716年9月27日、ヴァイマールで初演されたと推定されています。1735年ころに再演もされています。

この時期は、J.エルンスト公の大喪が続いた後で、そういった点が歌詞に反映されているように思います。なぜなら、内容が若者を今わの際の「われ」に見立てて、来世を待ち望む感情へと高めているものであるためです。

ナインの一人息子�A
http://biblestory.jugem.jp/?eid=276

このテクストから言いますと、どう考えてもこれはエルンスト公の大喪と関連があると考えるべきだと思うのです。死せる若者がよみがえり、生ける「救い主」となる・・・・・

死を単なる悲しみととらえるのではなく、来世への復活ととらえるという、ポジティヴな思想です。

音楽的には、リコーダーがいきなり冒頭で鳴り響くものとなっています。リコーダーは以前もヴィヴァルディで取り上げましたがバロックではポピュラーな楽器ですが、カンタータではなかなかお目に係れるものではありません。少なくともポピュラーではありません。次第にフラウト・トラヴェルソにとって代わっていったからです。丁度バッハの時代はその転換期に当たります。

今月のお買いもの:ヴィヴァルディ リコーダー協奏曲集
http://yaplog.jp/yk6974/archive/527

リコーダー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC

そういった意味でも、バッハのカンタータは楽器の歴史を見るうえで、とても重要なのです。

最後5曲目が第143番「わが魂よ、主を頌めまつれ」です。1708年から14年に初演とされています。正確な日時が分からない上に、自筆譜がなく写譜だけという状況で、偽作の疑いさえあるという代物です。ただ、私としてはバッハの作品という説を支持したいと思っています。それは、後年の受難曲に構成が似ている点です。レチタティーヴォに使われている曲もバッハが好むものですし、もしバッハ以外の人が絡んでいるとすれば、それは写譜された時に何かと混じったという可能性です。

あるいは、バッハの息子達によって編曲されたという可能性です。これは管弦楽組曲第5番の例があります。

管弦楽組曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E7%B5%84%E6%9B%B2
※第5組曲BWV1070は現在では息子ヴィルヘルム・フリーデマンの作品とされています。

ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

最も偽作という疑義が挟まれるのが最終合唱でしょう。これは確かにバッハの作品としては趣が異なっています。音型がなにかバッハの作品としては奇異な印象を受けます。ただ、それも何か違うものが混じった、あるいは失われたので後年息子たちが付け足したのであれば、不自然さは説明がつくわけです。

それにしても、この時期のカンタータは今回例を出した管弦楽組曲が作曲された時期に相当するのですね。そういった比較をしてみるというのも、面白いかもしれません。皆川先生あたりがもうすでに番組でおやりになられているかもしれませんけどね・・・・・・

音楽の泉
http://www.nhk.or.jp/r1/shou/ongaku_izumi.html

あるいは、「古楽の楽しみ」でしょうかねえ。
http://www.nhk.or.jp/classic/kogaku/

こういった番組も聴きますと、また楽しいものです。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第18番「天より雨下り、雪落ちて」BWV18
カンタータ第152番「出で立て、信仰の道に」BWV152
カンタータ第155番「わが神よ、いつまで、ああいつまでか」BWV155
カンタータ第161番「来たれ、汝甘き死の時よ」BWV161
カンタータ第143番「わが魂よ、主を頌めまつれ」BWV143
鈴木美登里(ソプラノ)
イングリッド・シュミットヒューゼン(ソプラノ、BWV143)
米良美一カウンターテナー
桜田亮(テノール
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS CD-841)



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