今月のお買いもののコーナー、今回は毎度おなじみのBCJバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第36集です。
収録されているカンタータは、第42番、第103番、第108番、そして第6番の4曲で、いずれも1725年4月に初演されています。そのためか、すべてキリストの磔刑あるいは復活を取り上げています。
まず、第42番「この同じ安息日の夕べ」BWV42です。最初がシンフォニアで始まります。珍しい構成ではないのですが、ずいぶんと久しぶりなので驚かされます。BCJのアンサンブルは完全ですね。いやあ、これならいっそモーツァルトの交響曲かクラヴィーア協奏曲に挑戦してほしいところです。
シンフォニアが終わってレチタティーヴォが始まり、「人の声」が入ってきます。事典によりますと、この曲はキリストが復活して弟子たちの前で「しるし」を行う場面といいますから、この堂々たる構成も納得です。歌詞もそのためか、とても肩ひじ張っているものになっています。これぞキリスト教というコアな部分を取り上げていますが、日本人にもなじみのある場面ですので、すっと音楽が心へ入ってきます。
次の第103番「汝らは泣き叫び」BWV103もイエスが磔刑時、弟子たちとの別れの場面を扱います。この曲は合唱から始まりますが、それでも序奏としてオケが最初導入部を演奏し、しかもそれは協奏曲的です。こういったさりげなくいろんな構造がまじっているのもバッハのカンタータを聴く魅力です。こんな点におそらく後世の大作曲家たちも魅了されたのだと思います。最後はコラールで締めくくられます。ちなみに、歌詞は第35集を取り上げたときにもご紹介しました女流詩人ツィグラーの作です。
第3曲目の第108番「わが去るは汝らの益なり」BWV108も女流詩人ツィグラーの歌詞です。これも題材としては磔刑を扱っていまして、受難節直後という時期なのだなと思います。つまり、人の罪を背負って私は死んでゆくのだから、残った者たちには利益なのだとイエスが説くわけです。まさしくキリスト教のコア部分を扱っているカンタータといえましょう。冒頭はバスのアリアで始まっていて、まるで映画でナレーションから始まる感じを想像させます(たとえば、「宇宙戦艦ヤマト完結編」のように)。最後のコラールも素晴らしいです。
第4曲目の第6番「われらと共に留まりたまえ」BWV6も復活の場面を取り上げた一曲です。それもそのはず、この曲はまさしく復活節である1725年の4月2日に初演されたものだからです。しかも、その内容はキリストが全くべつな人間として生まれ変わっているという設定。いわゆる「復活」といいますと私たちは奇跡のような感じを受けますが、この場面では仏教でいう輪廻転生を感じざるを得ません。音楽はまず短調のコラールから始まりますが、その後音楽はだんだん楽章を経るごとに長調へと転調し、弟子たちがイエスと気づいてゆく過程を描いていきます。その構成はまさしくキリスト教ですが、しかし復活したイエスが別人として現れるなんて、まさしく「輪廻転生」ですね。
仏教風にいえば、イエスは人のためよきことをしたため、閻魔大王がもう一度人として人の役に立ちなさいと人に生まれ変わらせたように思わせる音楽です。
実は、こんな点から昔からキリスト教と仏教はつながりがあるのではといわれています。それを語りますと長いですし、本一冊がかけてしまいます(実際、そんな本がありまして、わたしは大学時代大学の図書館で借りて読んでいます)ので省きますが、決してキリスト教も私たちに遠い存在ではないのだと思わせる題材ですし、それを音楽として表現したバッハも、もしかするとそんな観点があったのかもしれません。実は、バッハが活躍した時代に仏教がヨーロッパへ伝わっていた可能性を指摘する学者も少数ながらいるのです。もしかすると仏教の「輪廻転生」をこの聖書の説話と結びつけた可能性はごく少ないですが捨てきることはできないと私は考えています。
わたしの大学時代はそんなことに明け暮れたものだったなあと、つい思い出してしまいました。
聴いているCD
バッハ・カンタータ全曲演奏シリーズ36
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第42番「この同じ安息日の夕べ」BWV42
カンタータ第103番「汝らは泣き叫び」BWV103
カンタータ第108番「わが去るは汝らの益なり」BWV108
カンタータ第6番「われらと共に留まりたまえ」BWV6
野々下由香里(ソプラノ)
ロビン・ブレイズ(カウンターテナー)
ジェームズ・グリッチリスト(テノール)
ドミニク・ヴェルナー(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS SACD-1611)