かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マリー=クレール・アランのバッハ・オルガン作品全集4

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、マリー=クレール・アランが弾くバッハのオルガン作品のアルバムをご紹介していますが、今回はその第4集を取り上げます。

この第4集でも、特に目立ったものはなくそれ以前を踏襲している内容にはなっていますが、その中でもこの第4集では圧倒的に多いのがコラールです。

コラールを聴きますと、幾分物足りなさを感じる人も多いかもしれません。それは多分、リヒターの弊害なんですね。あの圧倒的な演奏こそバッハの精神性である!というイメージというか、刷り込みが日本人には多いように思います。

けれども、コラールにそんな作品を見出すことは困難です。むしろ小さめの音量で、可憐な作品が多く、圧倒するような音を見出すことのほうが難しいでしょう。

となれば、完全にアランの演奏は圧倒的な音による演奏というか、その演奏だけによるバッハ解釈へのアンチテーゼだといえます。

もちろん、圧倒的な音の演奏がないわけでもありません。例えばこの第4集の18曲目に入っているBWV722は、明るく強い音によって演奏されます。けれどもそこには軽さもあり、決して重厚ではありません。オルガン作品を決して重厚さではなく荘重さを重んじて明るく演奏するという点にこそ、私は強い精神性を感じます。

なぜなら、人間の「魂」は決して重厚なものばかりではなく、喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、そして哀愁と、様々であり繊細です。それをキリスト教を切り口にしてオルガン作品としてまとめたのがバッハだとすれば、ごく普通なアプローチだと思うからです。どんなにバッハが素晴らしい作曲家だったとしても、彼も一人の人間に過ぎません。その意味では私たちと何ら変わりないからです。

そんな人間バッハの作品を、同じ人間だからこそ表現できるんです。圧倒的な音が真理であるはずがありません。真理はもっと別なところにあると言わざるをえません。あくまでもリヒターの圧倒的な音という演奏は一つの表現でしかありません。戦後日本人がリヒターとバッハを勝手に祀り上げただけの話です。アランのこの演奏は、そんな日本人への明確なアンチテーゼなのです。

さあて極右の皆様、このアランを韓国同様反日と貶めるおつもりでしょうか?




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
プレリュードとフーガ ホ短調BWV533
コラール「今ぞ喜べ、汝らキリストの徒(ともがら)よ」BWV734
コラール「いと尊きイエスよ、われらはここに集いて」BWV730
コラール「いと尊きイエスよ、われらはここに集いて」BWV731
コラール「甘き喜びに包まれ」BWV729
コラール「心よりわれこがれ望む」BWV727
プレリュードとフーガ ハ長調BWV531
コラール「主イエス・キリストよ、われらを顧みて」BWV726
コラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV711
コラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV715
コラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV716
コラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV717
コラール「キリストは死の縄目に繋がれたり」BWV718
コラール「ああ、主なる神よ」BWV714
プレリュードと模倣曲(ファンタジア) ロ短調BWV563
コラール「讃美を受けたまえ、汝イエス・キリストよ」BWV722
コラール「神の子は来たりたまえり」BWV724
コラール「わが確き望みなるイエスは」BWV728
コラール「神を讃えまつれ、汝らキリストの徒よ、こぞりて」BWV732
コラール「天にましますわれらの父よ」BWV737
コラール「高き天よりわれは来たり」BWV738
コラール「輝く曙の明星のいと美わしきかな」BWV739
コラール「われら皆一なる神を信ず」BWV765
コラール「主なる神よ、汝をわれらは頌めまつらん」BWV725
マリー=クレール・アラン(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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