かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マリー=クレール・アランのバッハ・オルガン作品全集8

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、マリー=クレール・アランが弾くバッハのオルガン作品全集を特集していますが、今回はその第8集を取り上げます。

演奏家および礼拝音楽の作曲家としてのバッハ」と題された第1集になっており、収録作品は第1集に回帰したような内容になっています。ということはむしろ、バッハの音楽というのは少なくとも何かの機会に演奏を披露するための作品である、ということになります。

それは当たり前だという指摘もあろうかと思います。確かに、コンサートというのは演奏を披露する機会なのですから。けれどもバッハの時代、自作を単に披露するためだけに作曲するということはなく、むしろ典礼音楽の作曲家という側面のほうが強い(さらに言えば宮廷音楽家)わけです。そこに、自作を披露するというものが付いたのがバッハだった、と言えるのです。

例えば、オルガン作品ではないですが、彼の世俗曲は多くがコンサート用です。ケーテン時代、宮廷音楽家であると同時にコンサートも開いており、ライプツィヒに移ってからは息子たちと「コレギウム・ムジクム」を結成し、自作や息子たちの作品を世に送り出すきっかけを作り続けたのです。

そんなバッハらしい作品をずらりと並べて、のびのび演奏するアラン。コラールと「プレリュードとフーガ」などとの対比は、実は典礼用なのかコンサート用なのかで表現を変えているということが、この第8集で明らかになるわけなんですね。そのスタイルを作りつつ、決して力任せには弾かず、しなやかな演奏を心がけるっことで自然と人間の鼓動すら感じる演奏になっているのは、もう称賛するしかありません。

特に、第15曲目のBWV768は、信仰するピュアな心を巧みに表現しており、圧巻。20分かかる演奏があっという間に過ぎていき、感動がじんわりと魂を支配するんですから、もう脱帽です。こういった演奏こそ、真にバッハのオルガン作品の評価を高めるものだと思います。

オルガン演奏はリヒターだけで判断すべからず・・・・・この演奏を聴きますとますますそう思います。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
プレリュードとフーガ ハ短調BWV546
コラール「いと尊きイエスよ、われらはここに集いて」BWV633
コラール「いと尊きイエスよ、われらはここに集いて」BWV634
コラール「これぞ聖なる十戒」BWV635
コラール「天にましますわれらの父よ」BWV636
コラール「アダムの堕落によりて ことごとく腐れたり」BWV637
コラール「われらに救いの来たれるは」BWV638
コラール「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV639
コラール「われは汝に依り頼む、主よ」BWV640
コラール「われらの悩みの極みにありて」BWV641
コラール「尊き御神の統べしらすままにまつろい」BWV642
コラール「人みな死すべきさだめ」BWV643
コラール「ああいかにむなしき、いかにはかなき」BWV644
パルティ―タ「喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ」BWV768
プレリュードとフーガ ヘ短調BWV534
ファンタジア ハ長調BWV570
マリー=クレール・アラン(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。