神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、マリー=クレール・アランが弾くバッハのオルガン作品全集を特集していますが、今回はその第7集です。
「オルガンの哲人バッハ」の2つ目として、クラヴィーア練習曲集第3部の後半と、トリオ「主イエス・キリストよ、われらを顧みて」BWV655、コラール「汝の御座の前に、われはいま進み出で」BWV668が収録されています。
バッハが宗教曲に携わり始めたのは、最初の妻を亡くしてからだといわれています。それから早うん十年。やんちゃでともすればスケベでもあったバッハも、最初の妻を亡くしてから人間の内面を見つめるようになったといわれていますが、そのうん十年の結果がこの3つの作品でもあり、それぞれバッハの晩年に作曲されているもので、特に最後の2曲は最晩年に作曲された「17のコラール」によるものです。
そのためなのか、アランの演奏はきわめて端正かつ質実剛健。派手に音をぶっぱなすようなことをしません。その分音圧だとかは少ないので、リヒターなどが好きな人であれば物足りない演奏かもしれません。しかし私には、アランの心の悲しみが見て取れるのです。
この演奏は私には、アランの亡くした兄へのオマージュと、その悲しみのフラッシュバックのように聴こえるのです。オマージュとフラッシュバックが同居し、一つの心象風景として結実し、芸術へと昇華しているように聴こえるのです。それは多分、私自身が人生において幾人かの大切な人を亡くしてきているということにも由来するんだと思います。だから、アランの悲しみと、それを手放そうとするための演奏という表現に、強く共感するんです。
人の感情とは様々です。最近では怒りのみが感情であると勘違いする人も我が国には多いのですが、基本喜怒哀楽と表現されますから、怒りだけではないことは明白なんですね。しかも、クラシックという芸術であればあるほど、その表現は一つではなく多彩で繊細です。バッハ自身がそのように音楽を書いたようにしか私には聴こえませんし、それはアランも一緒なのではと聴いていて取れるんですね。
ですから、アランが弾いていておそらくいろんな感情が去来しているんだろうなと想像できるわけですし、多分、それはそれほど遠くない正解なんだろうって思います。もちろん、私はアランの心の内がわかるわけではない赤の他人ですが、共感するものがたくさんあることから、類推することはできます・・・・・
その類推により導きだした結論が、多分当たらずも遠からずだろうなと思っているだけなんですが、多分、近いものがあるだろう、と。そしてそれはもしかすると、バッハも一緒だったのではないだろうかとすら思えるので不思議です。バッハの最晩年はもはや古典派と言ってもいいような時代。そんな時代に、古臭くも成熟したバロックという自分のスタイルを通して描いた人間の内面を、辛い思いをしているアランが掬い取っていると感じるのは、私だけなのでしょうか・・・・・
聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
クラヴィーア練習曲集第3部(ルターミサ)
フーガ「われら皆一なる神を信ず」BWV680
フゲッタ「われら皆一なる神を信ず」BWV681
「天にましますわれらの父よ」BWV682
「天にましますわれらの父よ」BWV683
コラール「われらの主キリスト、ヨルダンの川に来れり」BWV684
コラール「われらの主キリスト、ヨルダンの川に来れり」BWV685
コラール「深き淵より、われ汝に呼ばわる」BWV686
コラール「深き淵より、われ汝に呼ばわる」BWV687
コラール「われらの救い主なるイエス・キリストは」BWV688
コラール「われらの救い主なるイエス・キリストは」BWV689
4つのデュエット第1曲 BWV802
4つのデュエット第2曲 BWV803
4つのデュエット第3曲 BWV804
4つのデュエット第4曲 BWV805
フーガ 変ホ長調BWV552-2
トリオ「主イエス・キリストよ、われらを顧みて」BWV655
コラール「汝の御座の前に、われはいま進み出で」BWV668
マリー=クレール・アラン(オルガン)
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