かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ オルガン作品全集15

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、イゾワールが弾くバッハのオルガン作品全集を取り上げていますが、それもようやく最後の第15集までたどり着きました。

バッハのキャリアの最終到達点であり、その終焉の場でもあった、ライプツィヒ。その町で作曲されたオルガン作品を、この第15集ではキリスト教のカレンダーごとにならべています。

聖霊降誕節、三位一体節、三位一体祝日後の日曜日ときて、その後コラール集、最後は6つのリチェルカーレで締められています。

特に最後の6つのリチェルカーレは懐かしい曲で、2002年のN響第九特別演奏会で管弦楽版をN響が演奏しているんです。イゾワールは作品が持つ内面性をことさらに大きく見せるのではなく等身大で魅せているのがいいですね。

全体的に、作品を一つの枠にはめていないので、それぞれが持つ特色がしっかりと引き出されているのが、また聴いていて気持ちいいんです。圧倒的音が支配する作品ばかりではないバッハのオルガン作品全集。その一つ一つのキラリと光る素晴らしさが演奏によりさらに引き立てられています。

そして、イゾワールも重視している舞踊性。聴いていて思わず体を揺すってしまうリズミカルな演奏。それはまるで作品が一つの生命体であるかのようです。そしてその生命体とシンクロする自分、対話する自分が居ます。

イゾワールの演奏には、このリズムの要素がしっかりとあるのが、私好みだなって思います。音楽の三要素の一つでもあるリズム。それがしっかりと重視されているのがいいんです。それを無視する評論も多いのですが、三要素の一つであれば、そのリズムをどのように表現として使っているのかも、評論の対象たるべしと私は思います。

ですから、イゾワールの演奏はリズムが生命力へとつながっている点で私には高評価です。音楽の三要素であるということはつまるところ、作曲家もそのリズムを使って何かを表現しようとしているということなのですから。その何かをどのようにすくい取って自己の表現とするのか。そこが演奏者の仕事なのではないかと思います。

こうしっかりと一つ一つを聴いてきますと、バッハのオルガン作品には沃野が広がっているなと感じます。たった一つの楽器で世界を見せる。その世界を見てわたし自身はどう感じ、思うのか・・・・・その作業がとても楽しかったですね。こういう作業が、図書館で借りるだけでできる時代、なんです。もっと多くの人が使っていただくことを願っています。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
ペンテコステ
�@ファンタジア・スーペル「来ませ、聖霊、主なる神」BWV651
�Aコラール「来ませ、聖霊、主なる神」BWV651(註:恐らくBWV652の誤植)
�Bトリオ・スーペル「主イエス・キリストよ、われらを顧みて」BWV655
�Cコラール「来ませ、造り主なる聖霊の神よ」BWV667
トリニテ
�Dコラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV662
�Eコラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV663
�Fトリオ・スーペル「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV664
2ディマンシェ・アプレス・ラ・トリニテ
�Gコラール「装いせよ、おお、魂よ」BWV654
リフォメイション
�Hコラール「いざや もろびと 神に感謝せよ」BWV657
ラ・ヴィ・ドゥ・チェレティエン
�Iコラール「われらの救い主なるイエス・キリストは」BWV665(コンムニオ)
�Jコラール「われらの救い主なるイエス・キリストは」BWV666(コンムニオ)
�Kコラール「われは神より離れまじ」BWV658(コンフィナンセ・エン・デュー)
�Lコラール「汝の御座の前に われは進み出で」BWV668
�M音楽の捧げものBWV1079より6声のリチェルカーレ
アンドレ・イゾワール(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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