かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マーラー 交響曲第6番「悲劇的」

今週の県立図書館所蔵CDのコーナーは、2回ともマーラーです。今日は第6番「悲劇的」を取上げます。指揮はエリアフ・インバル、演奏はフランクフルト放送交響楽団です。

この時期、ちょうど1年位前になりますが、私はmixiのコミュ「同時鑑賞会」でマーラーの8番を聴きます。そのときに、ようやく私はマーラー交響曲の魅力というか、その音楽がすこし理解できたような感じになりました。

それまで、私はあえてマーラーの作品は避けていました。といっても、先日「マイ・コレクション」のコーナーでご紹介した5番以降、全く買っていないわけではないのです。1番「巨人」、2番「復活」は実は購入しています。ところが、それ以降の作品は全く食指が動きませんでした。

それは、やはり5番の影響が大きかったです。5番は先日も述べましたがまだ完全に理解できていません。それだけに、どうしてもそれ以降の作品というものを聴く気が起きなかったのです。かろうじて聴きたいと思っていたのが8番「千人の交響曲」で、それ以外は全くでした。

ただ、その次に聴きたいと思っていたのが、この6番「悲劇的」でした。図書館に借りに行ったとき、実は私はインバルで8番が欲しかったのですが、実際にはおいていなくて、散々迷った挙句、コミュでもお勧めだった6番を先に借りることにしたのです。それが、この演奏です。

インバルにこだわったのには、理由があります。もしかすると、5番を理解できない理由は指揮者にあるのではないかと思ったからで、ならば続く6番も同じ指揮者、オケで聴いてみたいと思ったのです。

実は、マーラーは避けつつも、私の中では年々全曲聴きたいという思いが強くなっていました。ただ、それ以上に聴きたい作品が他にたくさんあって(特にモーツァルトの宗教曲)、それまでは後回しにしてきたという経緯があります。それに加えて、5番の難解さが私を支配していました。

それを、同時鑑賞会をきっかけにして、克服してみようという気になったのです。

この演奏はCD2枚組みで、演奏時間も1時間30分近いものですが、よくみてみますと4楽章構成なのですね。スケルツォを第2楽章に持ってきて、さらに緩徐楽章を第3楽章に持ってくるというのは、ベートーヴェンの第九と同じで、そう全体を捉えてみますと、実は圧倒的にこの6番の方が聴きやすかったのです。

このとき、私がなぜ5番が理解できないか悟りました。ああ、その理由は構造だったのか、と。

音楽自体もかなりマーラーの精神状態を反映しており、その点も私がなかなか受け付けない部分だと気づきました。ようやく、私はマーラーの音楽への理解へ一歩踏み出した、そのきっかけとなった演奏です。

先日、ようやく5番がほぼ違和感なく聴けると感じたのは、恐らくその点が理解できたからだと思います。勿論、5番が5楽章形式だということは聴けばわかりますし、知らなかったわけではありません。ただ、やはり基本的に私はソナタ形式がしっかりしている作品が好きであるという、どちらかというと古典派の作品を好んで聴いてきた(実際、5楽章形式はベートーヴェンが「田園」でやっています)ことから、5番の革新性を理解し切れなかったといえるかと思います。

その点がクリアになった段階で、やっと次の一歩を踏み出すことができたように思えます。そのきっかけを与えてくださった、さんよう氏を初めとする後期ロマン派の交響曲、特にマーラーブルックナーの作品が好きな方々には、どのような言葉をもってしても感謝しくせません。この場を借りまして御礼申し上げます。

実際、この6番も第1楽章はやけに長いですし、さらには第4楽章も負けじと長いんですね〜。しかしながら、この演奏を聴いたときには全く長いと感じなかったんですね。5番ではもう長すぎていやだったのに・・・・・それは5番という作品が、5楽章という構造の上に、従来の交響曲の枠を完全に取っ払った、マーラーの狙い通りの作品であるという証明でもあるかと思います。それが一転、この6番ではある意味旧来の形式に戻したわけです。5番よりも長いのにも関わらず、私は5番よりもはるかにすっとその世界に入り込むことができました。

演奏自体も、アンサンブルがすばらしく、文句のつけようがありません。それも5番、6番ともに共通します。しかしながら、それでも私は6番の方が断然好きになりました。「悲劇的」という題名はついていますが・・・・・・私としては、よほど5番のほうが悲劇的です。

悲劇的というよりは、厭世観というか、そういう世紀末的なものを感じます。でも、3番以降ってもう20世紀なんですよね(つまり、交響曲のほとんどが20世紀のもの)。多分、マーラーの精神構造が世紀末に形成されたということが大きいのではないかという気がします。そんなことも、5番を難解にし、この6番は私にとって理解しやすいものになった一因かもしれません。

というのも、私も同じような世紀の切れ目を生きているからです。何となく、マーラーは第5番で格闘し、第6番では生き生きとしているように私には感じます。マーラーさん、5番は確かにすばらしい作品ですが、実際あなたが作曲したときはこの6番のほうが簡単だったのではないのですか?ともし今生きていたら質問したいなと思います。

ただ、私は彼ほど厭世観にとらわれているわけではありません。死ぬ願望は強いですが、それは厭世観もさることながら、もっと他の要因によるもので、世紀末の厭世観というのとは程遠いものです。その違いが私をして、彼の音楽に対する理解を妨げているような気がします。

私はこれから始まるマーラー祭りの後、ブルックナーへと傾倒してゆきますが、そのブルックナーの方がはるかに理解しやすかったのです。これならなんでもっと早くブルックナーを聴かなかったのだろうと思いました。実はブルックナーも聴きたい作曲家だったのですが、それも実はマーラーの5番の印象が妨げとなっていました。

この6番の演奏は、それをすべて取り払うきっかけになった、まさしく私の人生を変えた曲といっても過言ではないものだったのです。



聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第6番「悲劇的」
エリアフ・インバル指揮
フランクフルト放送交響楽団
(元CD:DENON COCO-6638/6639)