かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:マズアとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管によるブルックナー交響曲全集9

東京の図書館から、9回シリーズで取り上げてきました、府中市立図書館のライブラリである、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲全集、最後の第9回を迎えました。

最後の今回は第8番を取り上げます。実際の最後の交響曲は第9番ですが、完成されたものとしてはこの第8番が最後となります。その理由は、第8番は完成した時にあまりにも複雑で初演を担当する指揮者からダメ出しを食らってしまったことから、大改訂が行われたことで、ブルックナーが持つリソースのほとんどがこの改訂に注がれることとなったことから、第9番の完成まで手が回らなかったことに寄ります。

ja.wikipedia.org

確かに、長大な作品である上に、和声も複雑なので、これは当時の指揮者やオーケストラは面喰ったことでしょう(それでも絶対音楽なんです。いかにマーラー交響曲が当時異端だったかがわかろうものです)。ただそれは、ブルックナーが宗教音楽から積み上げてきた、集大成がゆえとも言えるでしょう。

ただただオルガンで表現でもできることを、如何にオーケストラを使い複雑な和声にすることにより重厚な響きを実現し、ホールを音による世界で満たすか・・・・・ブルックナー交響曲の道のりはそれがすべてであったろうと、私は思うのです。しかし、かといってリズムやメロディーを全く考えていないというわけではありません。

その典型が、以下の動画です。

www.youtube.com

これは「連結クラシック」というサイトでずいぶん前にアップされた、もともとはMIDI音源なのですが、なんと!youtubeに上げてくださっていました。この動画を聴きますと笑いが止まりませんが、しかしこんなネタにできるほど、そもそもはこの第8番も含め、ブルックナー交響曲にはリズムもメロディーも確かに存在しています。

そう、ブルックナー交響曲はむしろ、宗教音楽から始まっているがゆえに、メロディーもリズムも、そして和声も豊かなのです。本来そのすべてを味わうのがブルックナー交響曲の魅力だと私は思います。確かに、ブルックナー交響曲、特にこの第8番はデモーニッシュなリズムや和声もあるだけに、特に重厚な響きだけを味わいがちなのですが、私としてはそれに異を唱えるものです。ブルックナー交響曲、特にこの第8番はこんな阿波踊りに連結できるだけのネタを持つ、非常に豊かな内容なのです。

その出発点が、ブルックナーオルガニストというキャリアなのです。ですので、私はむしろモテットからブルックナーは入りました。そのうえでこの第8番を聴きますと、マーラーでも言われる「神亡き時代の宗教」はまさにブルックナー交響曲が扉を開けたのだと思わざるを得ません。

マズアのタクトは、そんなブルックナーのキャリアに基づくかのように、重厚さだけを全面に押し出すのではなく、リズムも、テンポも気にしたものになっており、作品にはしっかりと生命が宿るのだと宣言してるかのようです。一つの宇宙だととらえていると言えるでしょう。その宇宙には様々な生命が存在し、讃歌を歌い、多様で豊かなのだ、と・・・・・

連結クラシックの音源はもともとMIDIなので、細かな表情がついていないだけに逆に笑えるのですが、しかしこのマズアのタクトはむしろ、その笑いのネタの中は実は壮大な宇宙が広がっており、その宇宙を味わい尽くす幸せを感じることができるのだと言いたげです。細かい表情も非常に豊かですし、そして筋肉質な部分もあり、聴いていて生命しか感じないのです。

こういう演奏こそ、真にブルックナーの意図を浮かび上がらせる、実に優れた演奏であると言えるでしょう。かなり長い作品も多いブルックナー交響曲を、あっという間の時間が過ぎながら聴ける名演であると、私は言いたいと思います。

 


聴いている音源
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第8番ハ短調(ハース版/原典版
 第2楽章:スケルツォ アレグロモデラー
 第3楽章:アダージョ 荘厳にゆっくりと、しかしひきずられないように
 第4楽章:フィナーレ 荘厳に、速くなく
クルト・マズア指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

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