東京の図書館から、9回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるブルックナーの交響曲全集、第6回の今回は第5番の第2楽章から第4楽章を収録したアルバムをご紹介します。
本来は第1楽章から聴いたほうがいいわけなんですが、実はプレーヤーとして使っているSONYのMusic center for PCではなかなかそのままファイルを引っ張ってきても第1楽章から第4楽章を続けて聴くことはできません。これはソニーに限ったことではなく、WMPでも同じことではあります。これを解消するには、おそらくitunesしかないかと思われます。
そういう事情で、ディスクに基づき第2楽章から聴いているわけなんですが、第2楽章開始がかなりppなので、なかなか聴きとれないというのはもどかしいところです。なんとか先ほど聴いていた第1楽章の記憶を脳内に足しながら、ようやく全貌をつかんでいると言ったところです。
こういうディスクはぜひともハイレゾでリマスターするなりして再販・配信してほしいところです。サブスクだとあるといううわさもありますが、しかし最近ではサブスク疲れというものも出てきているとの記事も見受けられます。そのことについてはまた別途エントリを立てたいと思いますが、とにかく、先日も申しましたが、ブルックナーほどハイレゾ配信に似合ったクラシックの芸術はないでしょう。
第5番はかなりマズアもゆったりとしたテンポを意識しているように思われますが、しかし過度に重厚な響きに酔うことなく最後まで聴き通せるのはありがたいなと思います。確かにブルックナーの交響曲はその重厚な響きを味わうこともまた楽しみ方の一つなので否定するつもりはありません。しかしそもそもブルックナーの交響曲はそれまでブルックナーがオルガニストとして作曲してきたモテットなど宗教音楽がベースにあることを、この楽しみ方は忘れてしまう危険性があると私は思うのです。
ブルックナーの交響曲の特色で、この第5番でも顕著な重厚な響きは、そもそもモテットなどの宗教音楽がベースになっているからこそ生まれたものです。オルガンの圧倒的な響きを、いかにしてオーケストラで実現するのか・・・・・そこがブルックナーの交響曲という芸術の肝だと私は理解しています。そのため、あまりにも重厚な響きだけを追い求めている演奏はあまり私は好きになれないのです。
ですので、このマズアの解釈、そして演奏はむしろ、ブルックナーの交響曲の特徴を、自然と語っているように思えるのです。ですがそれは、録音当時はむしろ命の危険を冒すことだったでしょう。その危険を冒して語り掛ける、マズアのタクトとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の演奏は、私の魂に語り掛け、ブルックナーがこの演奏を通じて語ろうとしている本質を、見逃したくないと私をして思わせるのです。
音楽の三要素をご存じでしょうか?旋律(メロディ)、リズム、そして和声(ハーモニー)の3つです。あまりにも重厚さを追い求めてしまうと、この三要素がどこか行ってしまいかねません。そんなことをブルックナーが知らないわけありませんから、当然この3要素を踏まえた演奏こそ、ブルックナーの芸術が自然と浮かび上がる演奏であると言えるわけなのです。そしてマズアはその3つの要素をしっかりと踏まえた演奏を心が得たタクトを振っていると言えるのです。
ゲヴァントハウス管弦楽団には立派なホールがあるにも関わらず、なぜこの全集はロケーションが教会なのか・・・・・そこを突き詰めていくと、やはりブルックナーの芸術の基礎は宗教音楽であることだと言わざるを得ません。ということは、この全集は当時の旧東ドイツの共産党政権に対するアンチともとれる可能性が大なのです。
そもそも、ブルックナーが基礎として教会音楽をもってきた時点で、当時の流行に対してアンチであるわけで、その隠された反骨精神を、重厚な響きだけを追い求める演奏は隠してしまうのではないかと、私は危惧するものなのです。その点で、マズアは非常にいい仕事をしたと言えるでしょう。
聴いている音源
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第5番変ロ長調(原典版)
第2楽章:アダージョ かなりゆっくりと
第3楽章:スケルツォ モルト・ヴィヴァーチェ~トリオ
第4楽章:フィナーレ アダージョ~アレグロ・モデラート
クルト・マズア指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
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