さて、モーツァルトのミサ曲を取上げるシリーズも、終盤に差し掛かってきました。今日はK.317「戴冠式ミサ」を取上げます。
この曲は、恐らくモーツァルトのミサ曲の中でも人気を二分する名曲でしょう。レクイエムか、戴冠ミサか、という感じでしょう。実際、CDのこの曲に関しては数多く出ていますし、ザルツブルク時代のミサ曲の中でほぼ唯一といっていいほど、モダンの演奏が数多く残されている曲です。
実際、私もこの曲をはじめて聴いたのはモダンの演奏です。そして、それが私にとって初めてモーツァルトのミサ曲、いや宗教曲になりました。
もともと、彼の宗教曲に関心があったわけではありません。むしろ、避けていたくらいです。それが、当時入っていた合唱団の定期演奏会で取上げることになり、そのための参考として買い求めたのがきっかけです。
その時の印象と驚きといったらありません。なんとすがすがしく、かつエネルギッシュで、明るく、のびのびとしていることだろう、と。そして、それはピリオドの演奏も聴くようになった今でも変わりません。
演奏時間は25分前後。モーツァルト事典では28分と記載されていますが、実際はもう少し速めに演奏できますね。ミサ・ソレムニスとしては短い曲ではありますが、構成的にはミサ・ソレムニスとしての風格を備えています。
戴冠式という名称は、あまり意味がありません。今までは、ザルツブルク近郊のマリア・プライン巡礼教会における聖母マリア像の戴冠記念式典のためとされてきましたが、具体的な証拠から考えますと、それは現在否定されています。まず、それを確認できる史料が存在しないこと、そして1779年のその式典に間に合わすにはあまりにも時間がないことがあげられます。
前作からまた2年経っているのではあるのですが、彼がザルツブルクの教会で作曲していたのは何もミサ曲だけではありません。そのほかの宗教曲、例えばヴェスペレやリタニアといったかなり大きな曲も常に作曲していましたし、またこの時期も交響曲やピアノ協奏曲と言った曲も作曲していました。そういう中での宗教曲の作曲ですから、いくら彼が天才だったとはいえ、そうたやすいことではありません。
しかも、ミサ曲に関しましてはずっと述べてきておりますが、常に実験の連続だったのです。休まる暇があろう筈がありません。改善、改善、また改善の日々です。
そういった中で、この曲はその集大成とも言うべき傑作です。
まず、キリエですが、これは一見するとミサ・ブレヴィスかと思う曲です。トゥッティでいきなり前奏なしに始まります。ですので、彼のミサ曲の中でも実は演奏するのが非常に難しい曲です。最初に最大集中をしないと、全体が崩れてしまいます。ゆったりとした演奏で、ややもするとべったりとした演奏になってしまう危険性もあります。八分音符を意識した演奏が必要とされます。
グローリアでは一転、速いテンポになります。ここまでは重唱を使い、コンパクトに仕上げることに心を砕いています。しかし、その仕上がり具合が以前とはまったく違い、いわゆる「高み」へと登っています。短調の使い方も秀逸で、この曲からは前期作品にある平明さが影を潜め、堂々たる音楽が鳴り響きます。ソナタ形式の美しさも秀逸です。
特に聴いて頂きたいのが、クレドです。最初の部分、クレドと繰り返す部分がテンポも速く印象的で、神への賛美を切々と訴える一方で、明るく伸びやかで、かつ堂々としています。万軍の将がやってくるかのようです。
しかし、磔刑の場面で一転して短調へと変わります。テンポも急に変わり、緊迫した場面であることが一目でわかります。わたしもはじめて聴いたとき、ここでゾクゾクっとしました。
そして、復活。切れ目なしで行くのはミサ・ブレヴィスのようですが、テンポとメロディがはじめに戻ることでキリストの復活を堂々と歌い上げます。このあたりはすばらしいです。その後のカノンとシンコペーションがどんどんキリストの栄光へと私たちを引き込んでゆきます。あのー、私仏教徒ですが・・・・・そんなのかんけーねえ!って感じでひきこまれてゆきます。まるで奔流です。神への賛美をまるで爆発させたかのようです。それでいて、理性は失っていません。
サンクトゥス。私はレクイエムのもすばらしいですが、このサンクトゥスも大好きです。まるで、神が後光をさしながら私の前に舞い降りたかのようです。そういった堂々たる部分がある一方、八分音符を効果的に使うことで親しみやすさすら兼ね備えています。このあたりはうなってしまいます。
ベネディクトゥスは、この曲がミサ・ソレムニスであることを証明する楽章です。オザンナまではソリストの独壇場です。モーツァルトのミサ曲で、きちんと四部混声の独唱を聴かせてくれる曲は初めてと言っていいくらいです。
アニュス・デイはフィガロからの借用ではないかとも言われるくらい、ソプラノの美しいアリアから始まります。それがいつの間にかキリエとおなじメロディに変化し、最後平安を歌う場面でそれが変化して、曲が終わります。
全体的にバランスがいい曲でもあります。それは、伴奏部と合唱部分のバランスです。速いパッセージと遅いパッセージを組みあわすという、彼の音楽でそもそも評価されている点が、今までのミサ曲ではなかなか実現できていないのですが、この曲では完璧です。ある意味、それ以後のミサ曲全体の基準とも言うべき曲です。そして、それは歴史に燦然と輝くものです。恐らく、そのバランスのよさが、例えばクレドでの大奔流の中でも理性を失わない演奏につながっていると思います。
さて、今回は保有する全てのCDを聴いて書いています。コレギウム・カルトゥジアヌム、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスだけではなく、イングリッシュ・コンサート、さらにはモダンのシュターツカペレ・ドレスデンです。実はこのオペラオケであるシュターツカペレ・ドレスデンで一番最初に聴いたのです。その驚きは、私の宗教音楽への意識を180度変えました。なんとなくカルト的な感じを受けていたものを、はっきりと払拭した演奏だったのです。
そもそも、このシュターツカペレ・ドレスデンの演奏がとても個性的なのです。本来、基準にはならない曲をはじめに聴いてしまったので、それ以後の「正統な」ピリオド楽器の演奏を聴けなくなるという、非常に厄介な問題をわたしに与えてくれた演奏です。
ちなみに、指揮者はソリストとしても有名なペーター・シュライヤー。しかし、彼の解釈は合唱団としてはとても歌いやすく、特に息継ぎを意識してフレーズをうたわせる点は秀逸です。ただ、八分音符をかなり強調する演奏で、ミサ曲がまるでオペラになっている感は否めません。しかし、それがこの演奏の魅力でもあります。しかし、それがゆえにほかの演奏を聴くことがしばらく困難になってしまいました。そういう意味では、私にとってこの演奏はベートーヴェンの弦四におけるアルバン・ベルクに匹敵するものでした。
しかし、この曲はそれが古臭いのかどうかわからないという点にこそいくつも聴く魅力があります。特に、現代ではフェルマータがついている部分ではリタルダンドをするというが当たり前ですが、ほかのピリオド演奏ではそれがほとんどリタルダンドしません。それが作曲当時当たり前だったからです。そのリタルダンドしない演奏を聴きますと、この曲からはさらに生き生きとしたものを感じるのです。生命の輝き、とでも言いましょうか。
生きるって、すばらしい。そんな生きる勇気さえ与えてくれる1曲です。そして、この曲を作曲するころから、彼の心には自立の二文字が支配するようになるのです。