かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ミサ曲変ロ長調K.275(272b)

今日は、K.275を取上げます。いやあ、この曲は本当に「ミサ曲」なのでしょうか・・・・・

というのも、実は私が持っているアーノンクールの宗教音楽全集では、この曲は「ミサ・ブレヴィス」なんですよ。形式的にもミサ曲といえるような代物ではありませんし・・・・・

しかし、新全集に準拠した「モーツァルト事典」では、確かに「ミサ曲」となっています。まれに誤植もあるので、間違いかな、って解説を読み直してみても、ブレヴィスのブの字もありません。

ただ、キリエはトゥッティで始まっているわけではないんですね。ちょっとだけ前奏があって、ソプラノソロのあとすぐ合唱が入るという構成で、それだけ見れば、まあ確かに「ミサ曲」かなあ、と・・・・・

時間的には事典での標準演奏所要時間は24分で、それだけでも確かにミサ曲ですが、私が聴いているアーノンクールのは18分と、ミサ・ブレヴィスとしてちょうどいい時間になっています。それも、そんなに速いテンポではありません。

これは、ミサ・ブレヴィスの方がより正確なのではないのかなあと、私は思ってしまいます。アーノンクールも立派なモーツァルト研究者ですから。しかし、小さいながらもクレド磔刑から復活の場面もドラマティックですし、それを効果的にしている転調とテンポの切り替えはすばらしく、そのてんからは確かに「ミサ曲」としてもおかしくはありません。

そういう意味では、明るくすがすがしい曲なのですが、とても中途半端な面もある曲、といえるかと思います。

全体的にとても世俗的で、宗教曲という感じがしない曲です。そこが多くの合唱団を魅了し、特に宗教音楽を取上げる団体では人気ですが、しかし、その世俗性のせいで19世紀に宗教音楽浄化の際、モーツァルトのミサ曲全体の評価が下げられてしまったきっかけを作ってしまった歴史を持つ曲です。確かに、アニュス・デイなどを聴きますと、ちょっとした舞台音楽のような感じも受ける点がありますが、私としてはそれは後の名作につながる部分ですので、そこまで世俗性という点でばっさり切るのはいかがなものかと思います。

それでは、戴冠ミサはどう考えるのかと私などは反論したいところです。あるいは、ルネサンスの作品はどう捉えるのか。

この作品は確かに世俗性があり、特にアニュス・デイには次々と歌い継ぐヴォードヴィルの手法が取り入れられていて、まるでオペラのように感じてもしまいますが、私はそこにこそ、ルネサンスから続く歴史を感じるのです。例えば、「完全なる音楽」といわれた、ラッススなどの作曲家の音楽から受け継がれた伝統を。それは当時の舞台音楽などにもつよい影響を与えていて、そこからのインスピレーションも充分考えうる作品です。

確かに、19世紀という、特に後期ロマン派の音楽を考えますとそのような考え方も成立するのでしょうが、私としましては、それは反対に当時の音楽に対する冒涜だったのではなかろうか、とも思うのです。実際、ブルックナーにしてもブラームスにしても、完全にモーツァルトの影響下から逃れることはできません。それから逃れることができたのは、和音を否定した人たちだけです。で、その人たちが作曲した作品の人気は、どうでしょうか。さほどあるとは思えません。

やはり、モーツァルトからの伝統を受け継いだ音楽こそが人気なのであり、それは後期ロマン派でも一緒です。そのあたりは、すでに歴史が審判を下したように、私には思えます。