かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

モーツァルト ミサ・ソレムニス ハ長調K.337

さて、皆様ご無沙汰しております。いやあ、風邪をひきました〜

ヘンな風邪でした。はじめは悪寒。その後高熱が来ると思い、すぐ売薬を飲んだのはいいのですが、意外なほど熱はないのです。その代わり、のどががらがら。痛くないのに痛いときと同じような状態で、自分が風邪を引いているのかどうかさえ、わからなく瞬間さえありました。

しかし、だるい状態は続いていましたので、とにかく時間があるときには寝ていました。しかし、しっかりとモーツァルトは聴いていましたよ〜。皆さんが待っておられますからね。

皆様も、新型インフルエンザだけでなく、風邪にもご注意を。

と、そんな中で、フォーク・クルセダーズの加藤氏の死去という、悲しいニュースが入ってきました。彼の生み出した前向きで、しかも明るい曲は、名曲として後世へ語り継がれて行くでしょう。

ですので、悲しみに浸るのは今回はやめ、予定通りモーツァルトのミサ曲を取上げます。

K.337は名称の中で唯一「ミサ・ソレムニス」と書かれている曲です。構成的にも一部を除けば確かにミサ・ソレムニスで、キリエの堂々たる前奏などはその証拠でもあります。

しかし、一方でベネディクトゥスでは合唱を主体とし、ソロをオザンナのリフレインでしか使わないというおきて破りも犯しており、ある意味彼の目指してきた「コンパクトなミサ・ソレムニス」という理想を貫き通している作品でもあります。それゆえに専門家の中には中途半端な作品と評価する人もいますが、しかしながら、実際の演奏を聴きますとそんな悪い印象は吹っ飛んでしまいます。

そもそも、ハ長調を選択している点で、それほど中途半端なわけがなく、全体的にも明るく、のびのびとしています。また、生真面目な曲で、作られた「不真面目モーツァルト」という意識で聴きますと、おそらく腰を抜かすのではないか、と思います。

クレドでの磔刑から復活まではドラマティックという点からしますと前作からは後退していますが、しかし信仰告白としての部分は決してはずしていません。むしろそこに全神経を注いでいるという感じで、復活の部分がとてもまじめに、かつ明るく描かれています。

そういう意味では、彼のミサ曲への自信が見て取れるのです。戴冠ミサでのドラマティックな構成だけでなく、ミサ・ソレムニスでの生真面目な点から切り取る構成もできるという、マルチな才能。それを見せ付けた形です。

この作品はザルツブルク時代最後のミサ曲になりますが、彼のミサ曲の中でも最後から3番目の作品になります。一見すると地味な曲でもあるのですが、とても重要な曲です。この時期の作品が彼の基礎になっていったことを考えますと、この曲で一つの結果を出したことで、次のステージ、ウィーン時代というものを迎えるための基礎は充分出来上がったといえるかと思います。

それほど、この曲からは彼の自信がとてもよく伝わってきます。速いリズムに長音符を使ったメロディという構成も完成されており、バランス的にもすばらしい名作です。それを特に意識できるのがグローリアです。キリエはまるでそのための序曲のようです。そのくせ、最後のアニュス・デイではソリストの四重唱がソット・ヴォーチェでおわるという、とても心にくい構成です。

この後、彼が作曲した中で残っているミサ曲はたった二つしかなく、しかもそのうち1曲は死者のためのもの。そう考えますと、彼は名作はまるでザルツブルクで生み出しきってしまったかのようです。それほど、この曲は全体的に完成されており、何度聴いても飽きません。今では、わたしはベートーヴェンのミサ・ソレムニスよりも好きになってしまいました・・・・・

さて、このシリーズもいよいよ最終局面です。次はようやくウィーン時代に突入ですが、しかし返す返すも、それが後2曲で終わりというのが寂しいですね。