かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD補遺:フランク 交響曲

神奈川県立図書館所蔵CD補遺、3回シリーズの最後は、フランクの交響曲を収録したアルバムです。カップリングには交響的変奏曲という、ピアノを伴う作品も収録されています。

その意味では、フランクの管弦楽作品集と言ってもいいかもしれませんが、いずれにしても主役は交響曲となっています。ただ、カップリングの交響的変奏曲もその存在感がある作品です。

フランクが残した交響曲は一応この1曲だけとされています。その交響曲は古典的かもしれませんが、フランスらしい作品にもなっており、その分ドビュッシーも評価する作品になっていると言えるでしょう。なぜなら、フランクの交響曲は3楽章制だからです。それは前古典派~古典派において、フランス風の様式と言われています。ドビュッシーはフランス・バロックに範をとった人だったからこそ、弟子たちは攻撃したフランクに対し、比較的寛容な目を持っていたように思われます。

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この「フランスバロックに範をとった」という点を、ドビュッシーの弟子たちはどこまで理解していたんだろうと思います。フランクは結構自由な様式の作品を残しており、その典型の一つは交響曲であり、一つは交響的変奏曲だと言えるでしょう。当時ドイツ風の4楽章形式がフランスの作曲家でも作られており、その代表がサン=サーンスです。しかしフランクはサン=サーンスとは異なり、「フランスらしさ」を交響曲でも追及したと言えるでしょう。だからこそ、ドビュッシーは評価をしたわけです。確かに調性音楽ですから、ドビュッシーの弟子たちからすれば敵視する点もあったとは思いますが、しかし師匠は決してけなしていなかったわけです。弟子たちと師匠は同人格ではありませんが、とはいえ師匠が目指したものとは異なり、様式原理主義に陥ってしまった点は否めないのではないかという気がします。その時弟子たちは師匠とは異なり、保守的な姿勢に逃げてしまったともいえるのだろうと思います。

カップリングの交響的変奏曲は幻想曲と言っていい様式をもっていますが、その中で変奏させてしまうという柔軟さを持つ作品です。幻想曲的な部分を持ちつつも、変奏曲という古典的な部分が混在し、そしてその融合が見事な幻想を持つ作品になっており、とても魅力的な作品です。

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それにしても、この二つをカップリングさせるのは、編集者にやられたなと思います。演奏するのはリッカルド・シャイ―指揮アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団。交響的変奏曲ではピアノがホルヘ・ボレット。どちらかというと、ドイツ音楽を得意とするオケですが、シャイーというラテンが入ることでとても豊潤なサウンドがそこに存在します。それはオランダのオケという多少特異な立ち位置というものもあるのでしょうが、このまさにフランス風を追求した二つの作品の意義というものが自然と浮かび上がるのは本当に素晴らしい!こういう演奏はまさにプロらしさだと思います。

フランクというと我が国ではあまりプロオケでも演奏されない作曲家の一人ですが、こう欧州のプロオケの演奏で聴きますと、まさにプロオケだからこそ聴きたい作曲家の一人だと思います。勿論アマチュアオケのチャレンジも素晴らしいですしプロオケで演奏例がドイツものに比べれば少ない現状では素晴らしい演奏もたくさんありますが、やはりプロオケで聴きたい作曲家であり、アマオケだけで演奏されるのは誠に残念だと思います。東京とは異なる文化を持つ大阪のオケにそれを求めることは酷でしょうか?本来はそういう文化活動を支援するために、大阪府大阪市は在阪オケに補助金を出し続けてきたのです。それが橋下氏がわからなかったのは、日本文化にとって最大のマイナスであると断言します。この録音は私たち日本人にその現実を突きつける刃だと思っています。

 


聴いている音源
ゼザール・フランク作曲
交響曲ニ短調
交響的変奏曲
ホルヘ・ボレット(ピアノ、交響的変奏曲)
リッカルド・シャイ―指揮
アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団

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神奈川県立図書館所蔵CD補遺:ヒンデミット ヴァイオリン作品集

前回と次回の3回シリーズで取り上げている神奈川県立図書館所蔵CD補遺、今回はヒンデミットのヴァイオリン作品を収録したアルバムをご紹介します。

ヒンデミットと言えば、この人も20世紀を代表する作曲家だと言ってもいい人ですが、題名的に個性的なものをつける人としても有名です。しかしそこに込めた想いというのは複雑で、思わずうなってしまうような作品が多いことで、私は近年好きになっている作曲家の一人です。

まずはヴァイオリン協奏曲。協奏曲にも標題として意外なものをつけたりするのがヒンデミットですが、このヴァイオリン協奏曲に関してはそんなことはなく、音楽で聴かせる作品となっています。和声としては20世紀のものですが、構成は古典的な3楽章制。急~緩~急という内容になっているのに、古典的な雰囲気はみじんも感じさせません。強烈な20世紀和声が、本来形式的には古典的なものをもっている作品を20世紀的な作品として表現しているのが魅力です。

つづくヴァイオリン・ソナタ4曲も個性的。無伴奏ヴァイオリン・ソナタは「外はとても良い天気だ」という標題がついている割には、20世紀音楽の和声が強烈な作品。「外はとても良い天気だ」という言葉をそのまま受け取らないほうがいいでしょう。その言葉にどれだけの「意味」があるのか・・・・・聴衆に考えさせる作品です。

他の3曲は普通のヴァイオリン・ソナタですが、ヒンデミットなので和声は20世紀音楽のもの。強烈であり、また個性的。2楽章あるいは3楽章と、これは様式的にも古典的ではないものばかりですが、ヒンデミットという作曲家の一筋縄ではいかない点を味わうことができる点で、これもまた魅力的。

演奏者も、ヴァイオリンはツィンマーマンで艶があるのが、ヒンデミットという作曲家の言外の言葉を表現しようとしているかのようですし、オケもhr響と実力派。日本ではまだこの名称はメジャーではないようですが、いわゆるフランクフルト放送響のことです。20世紀音楽の和声がしっかり表現されると、とても魅力的なんだということを教えてくれます。NHKのFMでも結構20世紀音楽はとり上げられていますが、意外とそれを評価する向きはクラシック・ファンには少ないように思えます。その点ではクラシック・ファンは左翼だとかいう向きが日本ではありますがむしろバリバリの保守であろうとしか私には言いようがありません。19世紀の国民国家を賛美する、むしろ国家主義につながるような作品のほうが好まれる傾向がある我が国のクラシック音楽シーンにおいて、特に極左が隆盛である点を見出すことは困難です。ヒンデミットの音楽がそれほど我が国で好まれていないという点ひとつを見ても、それは明らかだと思います。

こういう点にも、我が国のネトウヨあるいは極右がいかにいい加減なことを言っているか、ヒンデミットの音楽一つとっても明らかなわけなのです。むしろ我が国でヒンデミットがあまり聴かれていないことをいいことに、言いたい放題を言っている国賊だと言って差し支えないと思います。真に愛国心を持つひとは、ぜひともヒンデミットを聴いてほしいと思います。

 


聴いている音源
パウルヒンデミット作曲

ヴァイオリン協奏曲(1969)
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 作品32-2「外はとても良い天気だ」(1924)
ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調作品11-1(1918)
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ホ調(1935)
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ハ調(1939)
フランク・ペーター・ツィンマーマン(ヴァイオリン)
エンリコ・パーチェ(ピアノ)
パーヴォ・ヤルヴィ指揮
hr交響楽団(ヴァイオリン協奏曲)

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神奈川県立図書館所蔵CD補遺:マーラーとシェーンベルク 室内楽版「さすらう若人の歌」

今回と次回、そして次々回の3回は、「神奈川県立図書館所蔵CD補遺」として、神奈川県立図書館のライブラリをご紹介します。今回はマーラーが作曲した歌曲集「さすらう若人(若者)の歌」を取り上げます。

と言っても、実は隠れた主役は、シェーンベルク。「さすらう若人の歌」は伴奏がピアノ、あるいはオーケストラですが、それなら室内楽でもいいわけです。それを編曲したのが、シェーンベルクです。

マーラーオーケストレーションも優れたものですが、20世紀を代表する管弦楽作曲家と言えば、やはりシェーンベルクを挙げざるを得ないでしょう。そのシェーンベルクは19~20世紀の作曲家たちの作品に編曲を加えた人としても有名ですし、いくつかはこのブログでも取り上げています。

このアルバムはむしろ、そのシェーンベルクの「編曲家」としての才能を取り上げていると言っても過言ではありません。マーラーオリジナルのピアノ、そしてオーケストラ版を存分に研究した跡が、聴くだけで見出せるのは素晴らしく、マーラーオリジナルと言っても過言ではないくらいです。

シェーンベルクと言えば、12音階が注目されるのですが、初めから調性を否定していたわけではありません。それはこのブログでも幾度か触れているかと思います。ある意味、シェーンベルクという作曲家のイメージを覆すこれらの編曲だと言ってもいいでしょう。委嘱されて編曲しない限り、それはリスペクトあるいは作曲者のオーケストレーションなどに対するアンチテーゼであるからで、それは本人の意思によるものだからです。

2曲目のシェーンベルク自身の作品である「クリスマスの音楽」は、12音階ということにこだわっていると「これはシェーンベルクを罵倒している!」とかイミフな言葉が発せられかねないと思いますが、まぎれもなく本人の作品でありますし、部分部分で調性から外れている点もあり、非常にシェーンベルクらしい作品だと言えます。

その次のシュレーカーの作品はシェーンベルク編曲ではないものの、シェーンベルクの影響下にある音楽として、どれだけシェーンベルクが20世紀音楽に影響を与えたのかが明確です。続く最後のブゾーニシェーンベルクの編曲。新古典主義音楽を提唱したブゾーニ。それはシェーンベルク自身も共感したのではないでしょうか。そうでなければ、シェーンベルクが編曲をするはずはないからです。内容としても非常にそん色ないというか、オリジナルがブゾーニだけに皆さんのシェーンベルク像とそん色ない響きが聴けるのではないでしょうか。

演奏するのも、カメラータ・ド・ヴェルサイユと室内アンサンブルで非常に明確な優れたアンサンブルによる「歌」が聴けるだけでなく、まさに「歌っている」アンナ・ホルロイドの表現力も魅力!20世紀音楽の一つの特徴は不協和音ですが、室内楽で聴きますとむしろその和声は追求された結果なんだとわかる分聴きやすい点があります。それは重厚な19世紀の和声も同様で、室内楽にするとむしろ非常にすっきりしていて、生命力すら感じますし、その生命力を生き生きとしっかり表現しているカメラータ・ド・ヴェルサイユの優れたアンサンブルも魅力的。

食わず嫌いはいけないよと、この一枚で教えられますし、まさに図書館のライブラリとしてふさわしい一枚です。こういう点は本当に神奈川県立図書館の優れた点だと思います。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
さすらう若人の歌室内楽版、アーノルト・シェーンベルク編曲)
アーノルド・シェーンベルク作曲
クリスマスの音楽
フランツ・シュレーカー作曲
5つの歌曲(ゲスタ・ノイヴォルト編曲)
フェルッチョ・ブゾーニ作曲
恋愛風子守歌 作品49 ~母の棺に寄せる男の子守歌(アーノルト・シェーンベルク編曲)
アンナ・ホルロイド(メゾ・ソプラノ、さすらう若人の歌、恋愛子守歌)
アムリー・デュ・クローゼル指揮
カメラータ・ド・ヴェルサイユ

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東京の図書館から~府中市立図書館~:ブラームスのハンガリー舞曲集ピアノ原曲版

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介します。ラベック姉妹の演奏によるブラームスハンガリー舞曲集です。原曲ピアノ4手版です。

ハンガリー舞曲集はその題名とは異なり、ハンガリーの民俗音楽全体を指すのではなく、その一部であるジプシーであるロマの音楽をブラームス流にアレンジしたりブラームスが作曲した作品集です。訴訟にもなりましたが基本的に編曲集であるということでブラームスが勝訴しています。

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とはいえ、この曲はその後19世紀~20世紀にかけてヨーロッパを席巻した、民謡収集運動へとつながっていくのですから、ブラームスという作曲家がどんな立ち位置だったのかを示す典型的な作品だともいえます。後期ロマン派の代表的作曲家でありながら、次代を先取りした作曲家でもありました。その「次代を先取り」という点を表す作品がこのハンガリー舞曲だと言えます。

後期ロマン派の一つの音楽運動として国民楽派があり、その反省として新古典主義音楽がありますが、その時代を先取りしたのがこのハンガリー舞曲集だと言えます。ハンガリー民族音楽を世に出そう、というのは当時実はとてもセンシティヴなことでした。ブラームスが活動したドイツ帝国ならともかく、お隣のオーストリア・ハンガリー帝国では、その帝国の一体性を否定する運動へとつながりかねないことだったからです。

ブラームスが活動したドイツ帝国は、多くの王国が連合した帝国ですが、しかしそれは基本的にドイツ民族だったわけです。しかしオーストリア・ハンガリー帝国は二重帝国とも言われ、多くの民族がその内部に存在するゆえに、その内部で帝国からの離脱、あるいは独立という機運もなくもなかったからです。ですからブラームスがこの曲を紡ぎだすということは、むしろオーストリア・ハンガリー帝国の当局から目を付けられる危険性もあったわけです。幸いながら、其の元になったのがジプシーの音楽だったからこそ目を付けられることもなかったと言えるでしょう。むしろ紹介したレメーニはそういった危険性を考慮して、ロマの音楽をハンガリーの音楽として紹介した可能性も考えられると思います。

4集からなる作品集ですが、意外とこの原曲が聴かれることは少ないんですよね。管弦楽編曲が主流であることが我が国では多く、しかもピアニストもこの曲がブラームスのオリジナルではないということで敬遠する向きもあります。しかし、ブラームス民族派であったという事実でもあるこの作品は、注目に値する作品だと私は思います。しかもパトリオティストだったからこそ、他国のパトリオティズムにも興味があるという部分もあり、私にとってはとても魅力的かつ共感する作品集でもあります。

しかし、今までこの原曲を聴く機会は少なかったのです。特に第4集までまとめて聴く機会は皆無。そこで図書館で借りてこようと思ったのがこの一枚だったのです。

ラベック姉妹の演奏は、過度に歌わないという点でとても優れています。なぜそれが優れているかと言えば、ラベック姉妹の出身はフランス。決して彼女たちはロマではないからです。この作品はあくまでもロマの音楽をブラームスという人間のフィルターを通して紡ぎだされたもの。その「他民族の人間というフィルターを通したもの」という部分を大切にしている点が優れているのです。そのことが自然と、ブラームスのロマの音楽に対する共感と、それを自らの芸術に取り入れようとするどん欲さが垣間見える作品の特色が浮かび上がってきます。

もっと言えば、彼女らの演奏は、同じくロマではないブラームスがロマの音楽を編曲したということへのリスペクトであるともいえます。過度に歌ってしまうと、それはブラームスの音楽になりかねません。しかしあくまでもブラームスはこの作品集は「ハンガリー舞曲集」として、ハンガリー民族音楽を紹介するというスタンスなのです。しかしブラームスらしさも見える。そのバランスを考えたとき、後期ロマン派でありがちな過度に歌う演奏は不適切である、との判断をしたように思えるのです。そしてその判断は正しいと私は思います。芸術に何が正しいのかなどは陳腐な場合も多いですが、この作品集に関してはラベック姉妹の姿勢は正しいと私は言いたいと思います。あまりにも過度に歌いすぎる演奏は果たして本当にブラームスが言いたいことだったのだろうか、あるいはロマの音楽を聴いたうえでの解釈なのだろうかと思ってしまうからです。

その点、ラベック姉妹の解釈はとにかく楽譜から掬い取れるだけ掬い取る、ということに徹しています。楽譜通りではなく、そこからどれだけ掬い取るのか、そして掬い取った分をしっかりとフィードバックできるか、です。ここは歌おう、しかしここはただ通り過ぎようということを楽譜を見てしっかりと吟味した跡が、演奏に見えるのです。その具合がとても心地よく、ブラームスの音楽であってブラームスの音楽ではないというこの作品集が持つ魅力、心地よさというものがしっかり表現されていると思うのです。

この原曲版こそ、ブラームスがロマの音楽に共感して紡ぎあげたオリジナルという点で、ブラームスの内面を表している版のように、私には思えてなりません。

 


聴いている音源
ヨハネス・ブラームス作曲
ハンガリー舞曲集(4手ピアノ版)
カティア・マリエル・ラベック(ピアノ)

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音楽雑記帳:朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェンの第九を全集を聴いた後でもう一度聴いてみる

音楽雑記帳、今回はある意味「東京の図書館から」の続きという形で、すでに「マイ・コレクション」でご紹介している、朝比奈隆指揮大フィルの「第九」を再度聴いてみたいと思います。全集を聴いた後で、どのように感じるのか。

この演奏はそれほど好きというわけでは実はないんですが、朝比奈さんが振る「第九」というものの一つの姿を現しているなと常に感じます。朝比奈節というのが楽曲全てに対して適用しているのかと言えば、実はそうでもないこともしばしばです。

この第九の演奏でも、実は朝比奈節が適用されていないのではないか?と思える部分があります。それが第4楽章バリトン・ソロからvor Gott!までの部分。ここはむしろそれまで封印してきた喜びを爆発させるような、アップテンポになっているのは印象的です。

それ以外は朝比奈節が全開。ゆったりとしたテンポになっています。これはある意味独創的な解釈です。なぜなら、第4楽章練習番号Mは強調の部分の部分であるはずなのです。ですが朝比奈さんは長音こそ強調だとして、練習番号Mは通過点と解釈。むしろ強調するのはそのあとの「抱きあえ、幾百万の人々よ」からであると提示しているのです。

これは音楽理論からしては自然です。長音は強調だからです。そして私自身も同じ部分こそベートーヴェンが言いたいことであり、意思であると感じています。歌詞の内容、そしてそこに付いた音符を見れば明らかなのですが、とはいえ、練習番号Mの部分もベートーヴェンが共感している部分であり、だからこそオケは八分音符を使いながらも、合唱部分は四分音符という「比較的長い音符」を置いているのです。しかしそれを通過点とし、本当に言いたいのはそのあとであると、明確に示したのが朝比奈氏の解釈、そしてタクトだと言えます。

ここに注目せず、結構朝比奈氏を「神格化」してきたきらいはないだろうかと思うのです。そしてそれが、結果的に芸術のげの字も分からない、理解しようとしない反知性主義の橋下氏に攻撃される一つの理由だったであろうと思います。神なのだから従え、みたいなところはなかったでしょうか。それは大フィル側、あるいは大フィルを支持していた側としては反省すべき点だと思います。

実は私は朝比奈氏の解釈に関してはそれほど支持している人間ではなかったので、神格化まではしていなかったこともあり、橋下氏の言い分にも理解はしていました。しかし大フィルの「演奏者」まで駆り出させて満足気なツィートにはついに「あなたは芸術を理解していない。プロの演奏家たちにいきなりチラシ配りをさせることがなんという事かわかっていない」というリツィートをせざるを得ませんでした。本来これは事務局が真っ先にやらねばならないのです。人手がどうしても足らない場合に、頭を下げて演奏者に「お願い」しなければいけないことなのです。それがプロ・オーケストラの組織論です。

確かに、演奏家もチラシ配りをすることはいくらでもあります。しかしそれは、独奏者である場合で、たいてい個人事業主です。しかしプロのオーケストラは大抵サラリーマンです。そのうえで職人です。普段しない仕事をさせるには、まずさせる側が頭を下げるのが筋です。それを命令系統でやらせるとなると、自分たちは一体何なのだろうという演奏者側の不満を増幅させることになります。何のためにうちには事務局があるんだよ、死ぬほど仕事しろよって考えるのが普通です。

大フィルの演奏が近年あまりクローズアップされないようになったのには、こういう裏側が発生し、演奏に影響を与えているからであろうと想像します。朝比奈氏死後、大フィルはほとんどCDを出していません。そのことで注目度も下がっています。むしろ日本センチュリー響のほうが今や発信力は強力です。それはそれでいいことなのですが、本来は関西にはいろんなオーケストラがあり、切磋琢磨して芸術を発信しているのだということが必要なのですが、現在むしろ関西の芸術は低迷しているということを暗にメッセージとして発信しているという逆効果にもなってしまっているのは大変悲しいことです。

私などは、本当に時間が取れるならば、今日は大フィルあすは日本センチュリー響というような、コンサートのはしごを大阪でしたいとも思います。勿論プロオケは高いので在京のプロオケでもそんなことはめったにやりませんが、関東に住んでいるのであれば、別にはしごする必要などありません。何日かに分けて行けばいいだけです。しかし関西までは高速バスを使っても6000円くらいかかり、往復すれば12000円がかかります。それだけあればどれだけのプロオケが聴けるでしょう?アマチュアオーケストラなら?それを考えたら、まとめて聴いてきたい!というのは私の中にあります。ですが残念なことに、現在の関西のオケの状況を見ると、そこまでお金をかける魅力はありません。日本センチュリー響だけで十分です。それなら大阪に泊るインセンティヴすらなく、コンサートが終わった後で夜行高速バス、あるいはサンライズ瀬戸・出雲(上り列車は大阪に停車するためです)を使って帰ってくるほうが時間を有効に使えます。

そんなことになるなんて、橋下氏は想像もしなかったでしょうね。それだけのファンが大フィルについているなんてわからなかったんでしょう。関西のファンだけで満足していたら、新型コロナがもう大阪の人だけしか宿泊できない状況を作ってしまった・・・・・皮肉です。つまり、橋下氏が下手な介入をしていなければ、東京からは難しくても、近隣の地方からはファンが泊りがけで聴きに来た可能性があったのをつぶしてしまったとも言えるでしょう。それをつぶしてすそ野を広げると言っても、魅力のないオケには聴きに来る人もいません。結局補助金だよりになるわけです。そこがわからない芸術論を振りかざす知事や市長など、長く務めることは不可能だったでしょう。

この演奏は至宝ですが、これ以降なかなか大フィルがアルバムが出せないのが本当に残念です。当初大植氏が就任したあたりではいくつかCDも出ましたが最近はぱったりという気がします。そんな原因を作り、まさに小劇団と同じ状況を作ったのは橋下府政、市政の負の遺産でしょう。或いは古楽テレマン室内あたりを大阪府とかが責任もって広報してくれるのでしょうか?まさか私頼み?大阪が芸術の都だという広報をすれば、おそらく距離的に近い韓国や中国、台湾のクラシック・ファンは来たかもしれないというのに。そのインバウンドを拾う間もなく、Covid-19により大阪近郊の人しか拾えなくなってしまった・・・・・さて、大阪府そして大阪市は、今後の芸術展望をどのように考え、広報するのでしょうか?

久しぶりにこの演奏を聴いて、改めて朝比奈氏の独創性に敬意を表するとともに、このような芸術をつぶして大阪を売り出そうとした橋下府政、市政の薄っぺらさを強烈に印象付ける結果となっているなと思います。これではますます、東京との差は広がっていくだろうなと思います。その東京ですら、はたして今後の展望はあるのだろうかと思いますが、それだけの危機感を、本当に大阪の政治家たちは感じているのだろうかと、この演奏を再び聴いて思います。

さて、ここまで朝比奈氏と大フィルによるベートーヴェン交響曲全集を聴いてきましたが、できればアップスケーリングで聴きたいものです。図書館で借りてきたものはすべてソニーのMusic Center for PCで聴いており、この第九はCDなので、同じソニーのHi-Res Audio Playerで聴いており、いずれもflac192kHz/24bit、DSD1kHzハイレゾ相当にアップスケーリングして聴いていますが、特にこの第九はザ・シンフォニーホールでの収録であるだけに、ホールで聴いているような臨場感を感じます。まだ大阪が輝きを放っていた時代の名演を、ハイレゾ相当で聴けることは非常に幸せなことです。勿論ハイレゾで再販することを望みますが、CD音源をアップスケーリングで聴けることもまた、素晴らしいことです。こういった「遺産」は後世へ引き継いでいくものと信じます。

 

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:朝比奈隆と大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集6

東京の図書館から、6回シリーズで取り上げている、府中市立図書館のライブラリである朝比奈隆指揮大フィルによるベートーヴェン交響曲全集、今回は最終第6回目である第6集を取り上げます。

第6集には交響曲第7番が、これまた1曲だけ収録されています。まあ、朝比奈さんは朝比奈節が特徴で演奏時間が長くなるから・・・・・という考え方もできますが、しかしこの第7番の演奏、それほど演奏時間が遅くなっているわけではありません。総演奏時間は約43分と第6番「田園」と大差なし。

もちろん、ほかの指揮者のタクトに比べると3分ほど遅くはなっています。しかし朝比奈節全開ならもっと遅くなっていても不思議はないはずなのですがそこまで遅いわけではありません。特に第1楽章や第4楽章でそれほど遅いと感じるとこは皆無だと言っていいでしょう。むしろ普通に感じるはずです。朝比奈節にどっぷり漬かっている方ならむしろ違和感を感じるくらい、普通です。

ですが、第2楽章や第3楽章で朝比奈節が存分に味わえるので、そのため演奏時間が伸びているとは言えるでしょう。ですが全体としては朝比奈節がしっかりと出ている割には普通な感覚に受け取れる演奏だと言えるでしょう。この点からも、朝比奈氏のタクトはゆったりとした作品に向いていると言っていいと思います。

その意味では、やはり朝比奈氏はブルックナーなんだろうなあと思います。図書館には朝比奈氏のブルックナーがあまりないのが残念なのですが、やはりこうなると朝比奈氏のブルックナーは一度聴いてみる価値があるだろうと思います。

ですがブルックナーという作曲家はクラシックファンならよく知られている作曲家ですが、それ以外の人にとってはむしろ何それ?っていう感覚はあるでしょう。むしろまだベートーヴェンのほうがメジャーであると言っていいわけで、大フィルに対する補助金の問題はむしろそのブルックナーを朝比奈氏と共に演奏してきたということがマイナスに働いたと言えるのかもしれません。ですがベートーヴェンで珠玉の演奏をしているわけなので・・・・・

その点でも、大フィルの事務局の怠慢というのはあったと思います。ただ、団員も事務局も共に大フィルの看板をしょっているので、一緒に見られてしまったと言えるでしょう。それが団員のチラシ配りという、最後の最後の手段がいきなり取られたという悲劇につながっていると言っていいでしょう。団員はどれほどの屈辱を味わったことか。それでも文句言わずチラシを配った団員達を、大フィルの事務局はどのように見ていたのでしょう?これは徹底的に批判されるべきだと思います。

本来、この交響曲第7番のように、魅力的な演奏をすることで聴き手を増やしていくというのが団員たちの仕事です。それが団員がする「宣伝」です。一方事務局はガチで宣伝を行うのが仕事です。そのためには、大フィルというオーケストラとその演奏がいかに魅力的なのかをしっかりとわかったうえで、論理的思考に基づいて宣伝戦略を練る必要があります。その戦略がしっかりしていなかったことが、芸術をわかっていない橋下氏に全く対抗できなかった一つの原因であろうと推測します。

小劇団など本当に小さいので、全員が手弁当でやらざるを得ません。その手弁当ということが演劇に魂を入れ、優れた演劇につながることはあまたあります。ですが、すでに分業体制ができているプロオケでは、その小劇団が手弁当でやっていることを事務局が一手に引き受けなければなりません。そのプロ意識があったのか、ということです。そこは批判の余地があるわけです。ですが橋下氏もそして大阪府大阪市の職員、そして喝采した市民の皆さんは事務局ではなく団員へ批判の目を向けてしまった。それは果たして正しかったのかは、検証する必要があると思います。

というのも、今関西から大フィルのコンサートの発信が全くない、ということが明らかだからです。録音も今途絶えていると言ってもいい状況ですし。その代わり日本センチュリー響はハイドン・マラソンなどで活発です。事務局の差だと言ってもいいのではないかという気がします。日本センチュリー響はおそらく大フィルよりもらっている補助金が少ないはずなのに、今や大フィル以上に存在感を増しています。これはオケの実力というよりは、事務局の実力の差だと言っていいでしょう。この第7番の素晴らしい演奏ができるオケが、もったいないなあという気がします。

胡坐をかいていたのは大フィルの団員ではなく事務局ではなかったと、今再度橋下府政、市政を検証することが必要なのではないかと思います。そのためには在阪メディアの奮起も必要です。維新の会に唯々諾々ではなく、本来メディアが持つ批判精神を今こそ発揮し、本来行政がすべき補助というものはその精神から言っていかなるものが適切なのか、検証すべき時期に来ていると思います。特に橋下氏の批判は本当に適切だったのか、引退した今こそ検証する時期に来ているでしょう。今一度言います、大フィルは関西の宝です。その宝が輝きを失っている今こそ、その原因の一つを造った行政の介入は正しかったのか、検証する時期であると断言します。

朝比奈節が存分に発揮されながらも、しかし普通に聴こえるこの演奏は奇跡です。これだけの演奏ができるプロオケが関西に、そして大阪に存在することに誇りを感じられないなら、大阪は民主主義の都市ではなく独裁者が支配する都市であるとしか、言いようがありません。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
朝比奈隆指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:朝比奈隆と大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集5

東京の図書館から、6回シリーズで府中市立図書館のライブラリである、朝比奈隆指揮大フィルによるベートーヴェン交響曲全集を取り上げていますが、今回はその第5回、第5集を取り上げます。

第5集には交響曲第6番「田園」が収録されています。え?その1曲だけ?って思うかもしれませんが、はい、その1曲だけです。田園が収録されるときってかなり田園だけということはほかの全集でも多いのですが、3曲続けて1曲だけにしている(実は次の第6集も1曲だけなのですが)と、ちょっと驚いてしまいますよね。

驚きはそれだけではありません。総演奏時間が約43分。これ、拍子抜けしてしまいます。あれ?朝比奈節どこ行った?ベーム指揮ウィーン・フィルのほうがもっと遅くなっていたはずだ、と。

ええ、この演奏、あまり朝比奈節を感じられない、稀有な演奏となっています。ですがところどころ細かく朝比奈節が見え隠れはしているので全くないということはないんですが、ほぼ朝比奈節を捨て去ったかのような演奏になっていることは確かです。

で、それじゃあダメなのかと言えば、これがとても心地よい演奏なんです!オケを存分に鳴らして歌わせた演奏は、まさにベートーヴェンが田舎に来たその喜びを表しているかのようです。素晴らしい!

多分、私の美意識と朝比奈さんの美意識が限りなく近づいた演奏はこの第6番「田園」の演奏であると言えるでしょう。違和感が全くなく、むしろとても心地いい演奏は好きな部類に入ります。多少朝比奈節が見え隠れはしますがそれは許容範囲内。全く問題ありません。朝比奈さんって時としてこういう解釈、そしてタクトになることがあるので、不思議な人です。ですがブレてもいない。朝比奈節は細かいがしっかり存在している。ほんと素晴らしい演奏だと思います。

こういう驚きは大歓迎です。これぞプロオケを聴く醍醐味ですから。これは名演と言っていいと思います。むしろ朝比奈節はこういったゆったりとした作品にこそ合うのだと思います。それが全く違和感ないということにつながっているのでしょうし。

本当にいつまでも聴いていたいと思わせる演奏で、さすがプロと言わざるを得ません。第4楽章のティンパニもぶったたいてくれますし、非の打ちどころがない演奏です。これだけの演奏をするオーケストラに対して誇りが持てず、演奏する団員にチラシ配りをさせる大阪府あるいは大阪市というのは、私は芸術の何たるかがわかっていない人たちだと断言せざるを得ません。そしてそれに喝采を送った市民たち。この人たちも芸術に対して無知な人たちであると断言できるでしょう。それは事務局の仕事であり、大フィルの事務局の怠慢を批判しなければいけないのに、橋下氏の小劇場の劇団員を持ち出したことに何も批判できるだけのものを持ち合わせていなかった、ということになるわけですから。小劇団に事務局などあろうはずがありません。だからみんなでやるんです。ですが事務局がある団体であればまず事務局でやり、やりきれないときにオケの団員に頼む、というのが筋です。

なぜなら、プロのオーケストラは基本分業だからです。団員たちは自らの技量を高めていい演奏をすることが仕事です。一方事務局はそのオーケストラにいかにお客を呼ぶかが仕事になるのです。この分業体制がわかっていないと、おかしなことになります。どんな赤字の会社であろうとも、まず営業部門にメスを入れてテコ入れします。オーケストラにおいてその営業部門とは事務局です。団員はそのお手伝いで口コミをしたりするのが普通です。それがわかっていない知事、そして市長の存在が大フィルの演奏力を削いだのだとすれば、それは補助金を出す意義から外れています。それでいいと考えているのであれば、大阪の凋落を止めることは不可能だと断言します。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
朝比奈隆指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。