かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ハイティンクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管によるシューマン交響曲全集2

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリである、ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(録音当時の名称。現在のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)によるシューマン交響曲全集、今回はその第2回目です。

今回取り上げる第2集に収録されているのは交響曲第3番「ライン」と第4番。番号順なのでシューマンの場合は成立順ではありませんが、5楽章ある第3番と、すべての楽章が繋がっている第4番との対比は面白いところです。ただ、聴きなれている私としては、そうなんだという感じしかないですが。

ですが、演奏はといえば生命力があるもので、さすがハイティンクアムステルダム・コンセルトヘボウだなあと。第4番では過度に激しくもなくしかし内面にある情熱はしっかりと表現され、第3番でものんびりとしたところと激しい点が同居しているところが自然体で、シューマン交響曲が持つ芸術性と精神性がしっかり演奏されているのは素晴らしいです。

どっしりとしたテンポがすべてではないですし、またとにかく激しくテンポを速くして演奏するのもすべてではありません。表現の手法として何を選択するのかということです。ハイティンクの選択はその点で私の美意識に合うものです。クラシック音楽は楽譜になった瞬間作曲家の手を離れ、演奏家に表現がゆだねられます。勿論、作曲者は楽譜に自分の想いを込めるために指示というものを書き記しますので、それが作曲者の意志ですが、演奏するのは他者なので、完全に再現されるわけではありません。その再現性を楽しむのがクラシック音楽を聴くことの醍醐味です。要するに、演奏家は指揮者も含めて作品のどこに共感しているのかが最も重要で、それなしのものは単なる音の羅列にすぎません。

そこがポピュラーとクラシックの異なる点だと思っています。私自身はポピュラー音楽でも好きなアーティストはたくさんいて、聴いている曲もありますが、クラシック音楽と同じテントことなる点は存在します。それが「演奏者が異なる他者である作曲家の意志のどこに共感しているか」です。ポピュラー音楽、特に歌謡曲の場合もそのようなケースはありますが、シンガーソングライターなら、同じなんですよね。しかも、ポピュラー音楽は記録メディアが発達した時代に隆盛した音楽なので、音源さえあれば本人の演奏に触れることができます。しかしクラシック音楽の場合は、作曲者本人の演奏に触れることは同時代の作曲家以外は難しいわけです。しかも、管弦楽だと同時代でも無理だと言えます。器楽曲と違い、必ず他者が関わりますので。指揮は本人というケースはありますが。

ポピュラー音楽でも、例えばアマチュアが演奏する場合は、クラシック音楽と同じ鑑賞姿勢になります。この人は作品のどこに共感しているんだろう、と。カバー曲などはその傾向がありますね。物まねも面白いですが、一方でアーティストがほかのアーティストの作品をどのようにとらえ、演奏するかを楽しむのがカバーです。クラシック音楽は常にカバーを楽しむものだと言えば、Jpopが好きな方でも理解できるのではないでしょうか。

ハイティンクも楽譜からシューマンの想いを掬い取りながら、決して音の羅列にさせずに表現させています。第4番では楽章が連結されており循環形式なので第1楽章と同じ旋律が第4楽章で帰ってくるだけに、後半アップテンポになっていくさまが見て取れます。これは演奏しているうちに思わず気持ちが入っているということもあるでしょうし、リズムに乗っているということもあるでしょう。これを楽しむのがクラシック音楽なのですね。まさにクラシック音楽の醍醐味を体現している演奏だと言えましょう。

 


聴いている音源
ロベルト・シューマン作曲
交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」
交響曲第4番ニ短調作品120
ベルナルト・ハイティンク指揮
アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。