かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ルトスワフスキ 交響曲第3番ほか

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ルトスワフスキ交響曲第3番と歌曲「眠りの空間」を収録したアルバムをご紹介します。

ルトスワフスキポーランドの作曲家です。このブログでは何度か取り上げてはいますが、頻度は多くありません。録音も少ないのが理由です。そのため図書館でのライブラリも少ないということになります。銀座山野楽器へ行けばかなりありそうですが、とはいえルトスワフスキでどれだけのスペースが取られているかと言えば、それほどでもないと思います(しかも今はCD売り場減りましたし)。

ja.wikipedia.org

とはいえ、上記ウィキを見ていただければお分かりの様に、作品数が少ないというわけでもないんです。ただ、作風が万人受けするのかと言えば、かなり微妙です・・・・・

ルトスワフスキの作風は「アド・リビトゥム」と言いますが、これはアドリブのこと。そもそもアドリブとはこの「アド・リビトゥム」という音楽用語を短縮したものです。

dictionary.goo.ne.jp

アドリブと言って、何を連想されるでしょうか?やはり即興ということを想起するのではないでしょうか。それを追求した作曲家がいます。ジョン・ケージです。ケージが提唱したのが「偶然性の音楽」。これが私たちが想像する即興に近いものです。

ja.wikipedia.org

このケージの偶然性の音楽に影響され、作風を変えたのがルトスワフスキでした。このアルバムに収録された2つの作品はどちらも「アド・リビトゥム」で書かれています。

交響曲第3番は、1973~83年にかけて作曲された作品です。1楽章の作品で、オーケストラの各セクションの出だしがそれぞれ異なるという音楽です。

ja.wikipedia.org

ウィキの説明にもありますが、ルトスワフスキの「アド・リビトゥム手法」は実際には楽譜に起こされ、ある程度コントロールされていますので「管理された偶然性」と呼ばれます。そもそも、楽譜に起こした時点で完全な偶然性ってあるの?と思いますよね。ケージが提唱した「偶然性の音楽」はヨーロッパにおいてはこのルトスワフスキのようにある程度管理された偶然性へと着地しました。私自身はこれは当然であろうと思っています。真に偶然性を追求するのなら、楽譜に起こさず、起こしたとしてももう記号だけにして後はその都度演奏者によって音楽が変わるとするべきだと思うからです。実際に、バロック時代の通奏低音はそのようにして演奏されています。

結局、ケージもそうなんですが、何を目指したのかと言えば、「混沌」なんですね。つまり、統制ではなく、管理されようがそうでなかろうが、もっと調整など規制を撤廃する、という方向です。言い換えれば音楽によって「神の見えざる手」のような、市場主義経済を音楽で実現させようという試みだと言っていいでしょう。

しかし、自由主義経済においても法規制があるように、ある程度の管理というのからは逃れることができません。なのでヨーロッパにおいては「管理された偶然性」に落ち着いたのは必然だったと言えるでしょう。無調性という20世紀音楽が行きついた先だったと言えば、わかりやすいでしょう。しかし現在は無調だけではなく調性があってもいいという方向に音楽は変っています。真に自由であるとはいかなることなのか?人間の芸術とは?という問いを突き詰めた結果なんですね。

そこに、人間の声が加わるとどうなるのか・・・・・その作品が「眠りの空間」だと言えるかと思います。歌詞がわかりませんので内容までわからないのが残念なんですが、しかし人間の声が加わっただけで、偶然性というよりはそこに何か意思を感じるんです。私としては、手法としては面白いけれど、時代のメインストリームとなるには弱いと思います。手法そのものを否定はしないんですが、古典派やロマン派という大きな運動にはなりにくい、と思います。

むしろ、21世紀という現代においては、多様性こそ音楽のメインストリームだと言えます。無調もあれば調性音楽もある。そして「偶然性の音楽」もある。その多様な様式が混在し、切磋琢磨していく時代が今である、と考えるのが適当だと言えるでしょう。

それがこの演奏を聞きますとがぜん浮かび上がるように思います。実はこの演奏、指揮するのは作曲者自身。特に交響曲第3番は完成してから2年ほどしかたっていません。オーケストラはベルリン・フィルソリストフィッシャー=ディースカウ。このトップクラスの演奏者たちが作曲者自身のタクトで紡ぎだした結果は、私には混沌の反映と映るんです。例えば、都市の喧騒が楽譜に起こされ、音楽として再現されているというような印象です。かといってうるさいわけでもなく、そこに何か人間の呻きや、意思というものが聴こえてくる、というような。

つまり、ルトスワフスキが目指したのは、人間の姿や内面を、複雑性で表現することであり、そのための手法を多く持ちたいということではないか?というように受け取れるのです。その意味では、20世紀の音楽とは何だったのかを理解する、一つの教材のように思えるのは私だけなのでしょうか・・・・・

 


聴いている音源
ヴィトルト・ルトスワフスキ作曲
交響曲第3番
眠りの空間
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウバリトン
ヴィトルト・ルトスワフスキ指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

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