かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ビエロフラーヴェクとチェコ・フィルによるドヴォルザーク交響曲と協奏曲全集12

今月のお買いもの、12回シリーズで取り上げております、令和4(2022)年5月にe-onkyoネットストアにて購入しました、イルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるドヴォルザーク交響曲と協奏曲全集、最後の第12回は交響曲第9番新世界より」を取り上げます。

この第9番については申し上げることもないとは思いますが、いろんな意味でもドヴォルザーク交響曲の集大成だと言えるでしょう。それは第5番以降の交響曲の特徴である「鉄分」、ドヴォルザークが作品にちりばめた蒸気機関車を描写するような音形と、それによる鉄道のある風景を描くというものも同様です。

第9番が第8番までと異なるのは、その風景がボヘミアからアメリカ大陸へと移った、ということです。だからこそフリアントも少なめです。けれども、「鉄分」が豊富なことは何ら変わっていません。第1楽章から蒸気機関車のドラフト音がどこかで聴こえるなど、「鉄ヲタドヴォルザークらしさが目白押しなのも変っていません。

では、ビエロフラーヴェクのタクトはどうなっているかと言えば、朗々とオーケストラを歌わせながら、蒸気機関車の様々な「音」もしっかり表現する、というものです。それはまさに、ビエロフラーヴェクが第7番あたりからずっと貫いてきた「鉄道(蒸気機関車が牽引する列車)がある風景」を表現する、というものです。

つい、鉄道の「音」が強調される演奏も多く、私もそういう演奏は大好きです。ですがビエロフラーヴェクはそこからすこしだけ距離を取り、風景の中にある鉄道の音を重視しています。そしてその音が風景と織り成す「絵」というものを表現しているとの解釈です。そしてその解釈が全く自然なので、違和感がないうえに、聴いているこちらは、ほかに好きな演奏があるにもかかわらず、十分受け入れ可能で、しかもうなってしまう演奏となっています。

結果、この演奏もいつしかいいね!と感じており、今まで一番の演奏だと感じていたドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団のものと比肩するものとなっています。全集で聴くなら、このビエロフラーヴェクで決まりかな、とも思うくらいの演奏になっています。

ドヴォルザーク交響曲を、主にリズム重視の演奏と、朗々と歌わせながらもリズムを大切にした演奏と二つの解釈のものが持てたのは素晴らしいことだと思います。どちらも素晴らしい演奏です。

そして、その素晴らしい演奏が実現されている理由として、チェコ・フィルの実力と共に、私はビエロフラーヴェクの「鉄ヲタ」としての譜読みの深さだろうと思っています。勿論、ビエロフラーヴェクが鉄ヲタだったということを証明するものはありません。ですが同じ「鉄ヲタ」として同じ匂いを感じる瞬間が、聴いていてあるのです。鉄道ファンであるという立場で譜読みをした場合には、本来蒸気機関車が疾走する場合、音が自分にどう聞こえてくるかを思い出しながらするだろうなあと思うんです。そしてビエロフラーヴェクのタクトは、私が感じる鉄道の「音」に非常に近いんです。

ですから、私は証拠はないんですが、ビエロフラーヴェクが「鉄ヲタ」だと推測するわけなんです。そして同じ「鉄ヲタ」だからこそ、演奏に共感する部分が多いのです。だからこそ、十分受け入れられる演奏になっているんだろうなあと思います。その意味では、2017年にビエロフラーヴェクが亡くなられたことは非常に残念です。この全集をひっさげて、ぜひともビエロフラーヴェクに「鉄ヲタなのですか?」という質問をしたかったなあと思います。そしてもしこの推論が正しかった時、存分に鉄道談義がしたかったなあと思います。

来日時、たとえば東京の鉄道を、ビエロフラーヴェクはどのような目で見ていたのだろうか・・・・・是非ともそういう話がしたかったと思うと、演奏が素晴らしいだけに、残念な想いと寂しさが去来します。合掌・・・・・

 


聴いているハイレゾ
アントニン・ドヴォルザーク作曲
交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より
イルジー・ビエロフラーヴェク指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
(Decca flac96kHz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。