かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:マズアとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管によるブルックナー交響曲全集3

東京の図書館から、9回シリーズで取り上げています、府中市立図書館のライブラリである、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲全集、第3回は第3番を取り上げます。

ワーグナー」という標題がついている第3番。ワーグナーに献呈されたことでそのようについていますが、実際に聴いてみますと、和声的にワーグナーに似ている部分もあるんです。これは確信犯だなと私は考えます。

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ブルックナーワーグナーを訪れたとき、第2番とこの第3番の二つの楽譜を持って行っており、そのうえでワーグナーにどちらが気に入るかを尋ねています。つまり、ワーグナーが気に入ったほうを献呈しようと、ブルックナーが考えていたということになりますが、おそらく第3番を献呈するために訪ねたのだと私は考えます。しかしもしだめだった場合に備え、すでに出来上がっていた第2番も持って行ったと、私は推測しています。

つまり、第3番にはワーグナーが好んで使う和声がちりばめられていますが、これはワーグナーの承認欲求を満たすものであったでしょう。ブルックナーはそれを知っていて、わざとワーグナーばりな和声をちりばめ、献呈をするという行動に出たのだと思います。もっと言えば、ブルックナーワグネリアンだということになります。だからこそ、ワーグナーの「後ろ盾」が欲しくて、この第3番を書き、そしてわざわざ訪問したうえで献呈したのだと思います。これは臨床心理学ではよく出会う症例です。

同じ時期に、ワーグナーを意識して交響曲を書いた作曲家がいます。ドヴォルザークです。しかしドヴォルザークは基本的にブラームスを師匠としているため、あくまでも流行に乗っただけという程度です。この差は、同じ時期で明確にスタンスとして異なっています。

どちらも魅力的な交響曲を書いたシンフォニストですが、ブルックナーの徹底的に暗がりから光へというストーリーは、時としてドヴォルザークのような作曲家を攻撃するという事態を招きました。私はどちらの作曲家にも共感するのでそんな行為は非常に迷惑です。

マズアはそんな論争から距離を置いて、重厚さをことさら重視するのではなく、むしろオーケストラが奏でる自然なアンサンブルと響きの中で、自然と重厚さが浮かび上がるように演奏させています。この境界線の引き方は上手だなあと思います。それでもブルックナー交響曲の特徴である、闇から光へというストーリーはみじんも損傷されず、むしろ演奏の中心にいて、心地よいアンサンブルとなって私を包み込みます。

こういう自然体な演奏は私好みです。もっと素晴らしい演奏はほかにある!そんなもの聴くな!という人もたまにいるのですが、何を聴こうが自由なのですから、ほっといてくれと言いたいです。むしろそんなマウントをしてクラシック・ファンの連帯を分断し、ほかのジャンルへとファンが取られるようなことをよく平気でできるなあと思うと、反吐が出ます。それによって苦労するのは、巡り巡って私たち聴衆であるのですから。私にはできようはずがありません。

マズアは社会主義体制で、その長所も短所もよく見てきたんだと思います。そんな中で、下手すれば論争になりかねないブルックナーという作曲家の作品をどのように演奏すれば普遍的なものになるのかを、スコアリーディングの上考え抜いた結果が、この演奏であるように思います。だからこそ、ほかの演奏に比べ私は共感することが多いんだろうと思います。

 


聴いている音源
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第3番ニ短調(ノヴァーク版/1899年版)
クルト・マズア指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

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