かんちゃん 音楽のある日常

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:ホグウッドとエンシェント室内管によるボッケリーニ交響曲集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団の演奏によるボッケリーニの交響曲集を収録したアルバムをご紹介します。

ボッケリーニの交響曲は同時代の作曲家、たとえばハイドンモーツァルトに比べると、ハイドンよりは新しく、モーツァルトよりは古めかしいと言えるかと思います。しかし、独創的な構造は、聴いていますと結構楽しくて、少なくともベートーヴェンのような深みというものを目指したものではないと言えるでしょう。

第1曲目の作品12-4G506「悪魔の家」は、1771年に作曲された作品。三楽章形式というのが古めかしい感じですが、しかしギャラントよりは新しいものが聴こえてくるので、思わずノリノリになってしまいます。たとえ「悪魔の家」という標題がついていても、どこか楽しくなるのはボッケリーニ・マジックとでもいえるかもしれません。

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第2曲目の作品35-4G512は、1782年に作曲されたもの。これも三楽章形式で古めかしさを持っていますが、ハイドン的な部分もあり、聴いていてギャラントというよりは古典的な印象を持ちます。

第3曲目の作品41G519。四楽章形式というここで取り上げられている二つよりは新しい様式をもっており、1788年の作曲。つまりこのアルバム、ボッケリーニの交響曲の歴史みたいなものが追えるように編集されていることがわかります。しかもこの作品41ですが、枝番がありません。その意味では、ボッケリーニが新しいものを目指した意欲作であると言えるでしょう。

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しかし、意欲作なのはこの作品41にとどまらす、第1曲目の作品12-4も意欲作なのです。この時代、短調はあまり好まれません。そこをあえてやるという点に、ボッケリーニの先進性が見えるのです。

モーツァルトも、短調の作品を書くようになるのはある程度名が知れてからです。しかしボッケリーニは作品12という時期にそれをやってしまうわけなんですね。意外と知られない独創性だと思いますし、やはりこの時代、イタリアが音楽先進地域だったのだと思わずにはいられません。

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この3つの作品を、いかにも古典的に演奏するのが、このホグウッドとエンシェント室内管のコンビ。小さい音は弱く、大きい音は強くという、古典派の法則に基づいて演奏すると、あら不思議、自然と作品から生命があふれ出るんです。特にカンタービレしなくても、演奏は自然と歌いだしているんです。

だからこそ聴いていて楽しいですし、かといって軽薄でもないため、満足度も半端ない。しかしこういう演奏、あるいは作品を「精神性がない」と切って捨てる今までのメインストリームには私は乗りません。むしろこういう演奏こそ精神性が現れていると思います。特に奇をてらわずにも生命力あふれる演奏になっているなど、まさに精神性あふれる演奏だと言えます。

重々しい演奏こそ精神性あふれる演奏だという人は、人間には深刻なものだけが精神に宿っているのか?と問わざるを得ません。人間には喜怒哀楽があり、その内面に立脚する演奏こそ、精神性のある演奏だと言えるのではないでしょうか。重々しい、深刻な演奏はその一部にすぎません。私にも深刻な心の内もありますし、ついウキウキしてしまう心の内もあります。それはすべて私の精神のうちの一つを構成するものです。

ホグウッドは「人間の精神性」というものをよく理解したうえで、譜読みをし、そこから作品の生命を掬い取っていると感じます。こういう作業がプロとして最低限だと思いますし、まさに基本的なことがしっかりしているからこそ、古楽のオケから聴こえる古めかしいアンサンブルから、生命讃歌が聴こえてくるのだと思います。素晴らしい演奏だと言えましょう。

 


聴いている音源
ルイジ・ボッケリーニ作曲
交響曲ニ短調作品12-4「悪魔の館」(G.506)
交響曲ヘ長調作品35-4(G.512)
交響曲ハ短調作品41(G.519)
クリストファー・ホグウッド指揮
エンシェント室内管弦楽団

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