かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:アシュケナージが弾くスクリャービンのピアノ・ソナタ全集1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回から2回シリーズで、ウラディーミル・アシュケナージが弾くスクリャービンのピアノ・ソナタ全集のアルバムをとりあげます。

以前ご紹介した小山実稚恵女史のを借りる以前に、神奈川県立図書館で借りていたと思います。もっと言えば、聴き比べがしたい、という意識で二つ借りていた、ということになります。

スクリャービン管弦楽作品で特に有名ですが、むしろピアノ演奏で有名だったことは、小山女史の演奏を取り上げたときに触れたかと思います。だからこそ、そもそもピアニストだったアシュケナージがどのように弾いているかは、興味があったのです。

それは、アシュケナージ管弦楽作品を指揮者として振るときの、解釈の基準になるからです。自分がピアニストとして弾いて来たその経験を、オーケストラ相手ではどのようにアプローチに使えばいいのか、ということになりますから。

ショパンベートーヴェンは気持ちの高ぶりなどで速いパッセージも結構あったアシュケナージ。少なくとも、この第1集では、もちろんそうった速いパッセージもありますが、それでもどっしりした部分も結構あって、印象がちょっと違う感じを受けます。テンポの揺れやアコーギクは適度で、真正面から作品を見据えているような。

決して強迫的に急ぐのではなく、自分の気持ちの高まりを待っているかのような感じで、とても好印象。スクリャービンという作曲家に付きまとう「神秘主義」というものをいったん消し去ることに成功しています。こういう演奏はいいですね~。

なぜなら、スクリャービン神秘主義は、彼の人生、そしてライブラリの中でもほんの一部でしかないのですから。もちろん、神秘主義的作品にも魅力的なものは多くあるので私はネガティヴに扱うことはしませんが、それがスクリャービンであるというレッテル付けをしたくないのです。ほんの一部なのですから。それはよく父から言われた「象の足をさわってそれが象だというようなものだ」ということですから。それは正しいですか?

それは「象の足」であって、象全身ではないですよね?スクリャービンを「神秘主義」とだけ言ってしまうと、それがスクリャービンの作品すべてだと言いかねないんです(実際そういう評論を私はfacebookで見ました)。けれどもそれは、ピアノ作品を俯瞰するときに決して適切ではありません。アシュケナージはその点の「境界線」が明確に引けているピアニストだと思います。だからこそ、作品が持つ「魂」というものにしっかりとフォーカスできていると思います。

その効用は、私のような聴衆にしっかりと自身の演奏の魂が、その一部だけでも届いていること、なのです。アシュケナージの共感と、自身がメッセンジャーとしての役割を踏まえた、自身のフィルターを通した作品の魂。それが私にとっても共感できるものである、ということに集約されているように思います。どこか遠くにいた作曲家、スクリャービンを、私のそばへと寄せてくれたのが、アシュケナージのような気すらするのです。

 


聴いている音源
アレクサンドル・スクリャービン作曲
ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調作品6
ピアノ・ソナタ第2番嬰ト短調作品19「幻想ソナタ
ピアノ・ソナタ第3番嬰ヘ短調作品23
ピアノ・ソナタ第4番嬰ヘ長調作品30
ピアノ・ソナタ第5番作品53
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)

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