東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ダヴィッド・オイストラフが弾き、指揮するモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集を、次回と2回に渡りまして取り上げます。
私にとって、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集は2つ目であり、第3番から第5番までは、3つ目ということになります。2つ目あるいは3つ目ということになれば、それなりの特色がないと借りようとはなかなか思わないものです。
さて、このアルバムの特色というほどではないですが、借りる理由となったのは、ソリストがオイストラフであり、かつ指揮をしている、という点です。しかもそのオケがベルリン・フィルとなれば、興味もわくというもの。
ベルリン・フィルを指揮する指揮者、となると大抵の人はカラヤンかベームを想起するはずです。あるいはヨッフムか。なのに、これ、ヴァイオリニストのオイストラフ、であるわけです。このスタイル自体は決して私にとって珍しいものではありませんが、天下のベルリン・フィルを指揮するオイストラフって、聴いてみたいと思ったわけなのです。
オイストラフの演奏は、カラヤンが指揮したベートーヴェンのヴァイオリンとチェロとピアノのための三重協奏曲で知ったわけですが、その時のカンタービレする演奏に結構好印象があり、そのため今回オイストラフならと選択したのもあります。
カラヤンが作り出す演奏は外形美だとか言われますが、私としてはそうではなく(外形美など古典派であればどの指揮者でもある程度仕方ありませんから。不毛な批判です。古典派の音楽とはそういうものなのですから)、音の硬質さだと思っています。それがではオイストラフでは?
はい、実に柔らかい!かといってベルリン・フィルのサウンドそのものの若干の硬質さも加わって、古典美の中に優美さとカンタービレが同居し、実に心地よく、演奏者の喜びが存分にわかる演奏となっています。そしてその演奏に共感する私がいます。
こういった演奏を聴きますと、如何に現代のカラヤン批判が的外れかがよくわかります。外形美とか言っていますが、実際にどんな点が自分にとって嫌なのかは本当にわかってはいないんじゃないかと私は思っています。内面性と言っても、クルレンツィスのように外形的な表現をする人だっているのですが、それは賛美する人が多いのですよね。ただ、あれはあれで私は一つの表現だと思っていますし、否定はしませんが、私は少なくともチャイコフスキーの交響曲第6番を聴いた限りでは、選択しないですね。
しかしオイストラフは、実に見事にカンタービレしており、むしろカラヤンが振ったベートーヴェンよりもよほど外形的美を追求しているモーツァルトのほうが、存分にカンタービレしているように思うのです。
とはいえ、突っ走る部分もあり、あれ?と思う部分も第3番にはあるんですが、第1番と第2番ではカンタービレのオンパレード!ほほう、モーツァルトで、かーと新しい世界を見せてくれたような感じで実に楽しいですし、聴いていて自分の魂が喜んでいるのを感じるのです。
こういった演奏こそ、プロの仕事だよね~と思う次第です。実に現代カラヤン批判は不毛です。
聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲
ヴァイオリン協奏曲第1番変ロ長調K.207(カデンツァ:K.モストラス)
ヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調K.211(カデンツァ:D.オイストラフ)
ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216(カデンツァ:D.オイストラフ)
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン、指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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