東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介しています。今回はコジェルフの交響曲集を収録したアルバムをご紹介します。
コジェルフって誰?って思いますよねえ。実はこの人、ベートーヴェンやモーツァルトからけちょんけちょんにけなされた作曲家なのです・・・・・
とはいえです、このアルバムに収録されている二つの交響曲を聴きますと、え?どこが?って思ってしまうんですけどねえ。古典派の二人の巨匠に比べればその存在感は?ですが、かといってそこまでけなすまでの作品とは思えない和声展開とリズム。これは私の推測に過ぎませんが、このコジェルフって人は、当時の体制派だったのではないかって思うんです。
最も予測できるエピソードが、モーツァルトを嫌ったオーストリア宮廷からモーツァルト以上の報酬をもらっているという点です。音楽的にはモーツァルトにも近いものを持っているはずなのに、ベートーヴェンはおろかその近しいはずのモーツァルトからもけなされてしまうんです。それは、当時の体制派にいた作曲家だったから、ということが見え隠れするように思うのです。
音楽だけを真摯に聴けば、それほどけなすほどとは到底思えないはずの作品を攻撃する・・・・・これは人間の悲しい性です。同じことを、現代日本でも左右ともに見ることができます。コジェルフが生きた時代は、フランスでは市民革命がおこり、その余波が周辺諸国へ波及していく時代です。オーストリアでもどんどん進歩的な考え方が浸透しており、モーツァルトもベートーヴェンも共に芸術家の自立を目指した作曲家です。モーツァルトは晩年になって実現し、ベートーヴェンはほぼ最初から自立した作曲家でした。
そういった当時の社会の変化が、ベートーヴェンとモーツァルトの批判だったのではないでしょうか。つまり、じつは音楽そのものではなくて、どの作曲家でも作品のどれかにはあるアラを見つけると、反体制派だからこそ体制派をけなし、体制派も反体制派をけなす。そういったことだったのではないかというわけです。
収録された二つの交響曲のうち、ト短調は確かに第3楽章が唐突な印象があり、批判されたのはこういった点なのかなあと想像もできますが、一方のヘ長調は全体的によくまとまっている作品なので、おそらく私の推測は当たっているだろうと思っています。現代における私たちは、二つの勢力の作品を平等に聴き、単に作品の質だけでいい悪いを判断したいものです。このアルバムはそんな編集者や演奏者たちの意図が見え隠れします。
もともとこのアルバム、スプラフォンなのですね(しかも、1975年なので共産国時代!)。ということは、チェコの対外広告の意味合いもあり、チェコの作曲家を取り上げ、その良さを知ってもらうという側面があるわけですが、そういった路線を指揮するフラヴァーチェクとプラハ室内管弦楽団の奏者たちもよく理解しながら、楽しんで演奏しているのが音だけでわかるんです。演奏に生命力があり、はつらつとしているのがいいですね~。だからこそ、なんでコジェルフを二人の巨匠はけなしたんだろうって不思議に思うわけなのです。そこで、当時の社会情勢に想いを馳せる必要が出てきます。それを踏まえたとき、私たちはそれほど違和感がないことに気が付くのではないでしょうか。もちろん、批判された原因も含め、あとは私たち聴衆にボールがあります。これをどう受け止めたのか、そして投げ返すのかはそれそれですが、私は案外いいんじゃないの?というスタンスです。まあまあチュートーベンせんせ、と某マンガのようになってしまいますが・・・・・
できれば、図書館だからこそ、コジェルフの作品をまとめて持っていると嬉しいなあって思います。さすれば、ベートーヴェンを「神」と過度に崇めるようなことはしなくなるんじゃないかって思うのですが・・・・・
そもそも、こういったスプラフォンの録音を、最も評価していないのは「日本すごい!」って思っている某会議勢力たちだと思っています。確かにナクソスに日本の作曲家たちの作品が戦前期も含め収録されているのは素晴らしいことですが、本来はスプラフォンのように自国レーベルがやらなきゃいけないことでしょ?ってことなんですけれど・・・・・・わかってます?当該「会議」の皆さん方。
聴いている音源
レオポルド・コジェルフ作曲
交響曲ト短調P.I:5
交響曲ヘ長調P.I:4
リボル・フラヴァーチェク指揮
プラハ室内管弦楽団
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