かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン ピアノ・ソナタ全集9

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズで取り上げていますハイドンのピアノ・ソナタ全集も、最後の第9集を取り上げることになりました。

第9集に収録されているのは、第59番~第62番と、第18番。いよいよハイドンがクラヴィーアを持った時代の作品がずらりと並んではいますが、その中にポツンと第18番・・・・・

これはウィキ、ピティナともに偽作あるいはその疑いと一致している作品です。なのにオルベルツはハイドンの作品として収録しているのがユニークだと思います。

第18番以外は、ハイドンがクラヴィーアを持った途端、音楽が変わるという劇的なものなんですが、そこにしれっと入る第18番・・・・・時期的には1764年ですから初期の作品ということでこれもウィキ、ピティナともに共通しているんですが・・・・・

おそらく、オルベルツの判断はこうです。作曲年だけで出版年がわからないんでしょ?なら、本人の作品だって可能性だってあるわけでしょ?ということです。

つまり、オルベルツのスタンスとしてはピティナに近いですが、より積極的にハイドン作曲支持に近いのではと思います。あとは聴く人にお任せする・・・・・これを、当時社会主義国だった東独でやってるわけなんですよ。

意外にも、西側のほうが断定的に扱って、これはハイドンの作じゃない!と排除するような傾向もあるように思えるのですが・・・・・確かにエビデンスには乏しい。けれども偽作と断定するには、明らかに他人の作だというエビデンスもまた必要なんですね。それはないわけです。

なら、ハイドンの作として扱ってもいいじゃない?という自在さなわけです。こういう点、意外にも私たち西側だった人間は見落としがちです。けれども社会主義という、当時は秘密警察もあった社会体制(実際は秘密警察など必要なく、当時の国際情勢がそうさせたわけですが、それはそれでどっちが悪いという問題ではないのでここでは詳しく書きません)の中で、実践して見せたわけです。

そして実際、自在な演奏をしています。特にこの第9集に収録された作品はハイドンがクラヴィーア、つまりはフォルテピアノを持った時期に相当するわけで、明らかにピアノ曲として扱っていい作品がそろっているだけに、アコーギクをこれまで以上にきかせて表現力を上げているのも特徴的です。

初めてのハイドンのピアノ・ソナタ全集となったこの演奏で、本当に驚くくらい自在な演奏をここまで聴かせてもらいましたが、この第9集で頂点に達しているように思います。オルベルツの音楽史を俯瞰する目と同時に楽譜から受け取った情報を咀嚼して自家薬籠中のものにしているその様子は、真に見事です。聴いていて本当に楽しくて、爽快で、喜びが体の底から湧き上がってきます。

精神性という意味ではベートーヴェンに比べると・・・ですが、しかし喜びが湧き上がってくるという意味では、ベートーヴェン以上のものがあるのではと思います。だからこそベートーヴェンモーツァルトではなくハイドンに多くを学び、そのうえで高い精神性を芸術として昇華させていったとすれば、私たちがハイドンを見る目というのは、本当に正しいのか、共感しているのかと、ベートーヴェンに言われそうです。いや、ベートーヴェンではなく、チュートーヴェンが出てきそうですが・・・・・・

ハイドンピアノ曲?と最初私も思っていました。それは間違いだったと気付かせてくれたこの演奏、そしてこの全集は、図書館でかりるなり買うなりする価値のある、名盤名演だと言っていいでしょう。イデオロギー?そんなにあなたがこだわるなら、そのあなたが新しいハイドン像を見せてください。話はそれからです。

 


聴いている音源
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲
ピアノ・ソナタ第59番変ホ長調Hob.XVI-49 作品66
ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調Hob.XVI-Es3
ピアノ・ソナタ第60番ハ長調Hob.XVI-50 作品79
ピアノ・ソナタ第61番ニ長調Hob.XVI-51 作品93
ピアノ・ソナタ第62番変ホ長調Hob.XVI-52 作品82
ヴァルター・オルベルツ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。