かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:シェック 歌曲集「好ましき慎み」2

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介しています。2回シリーズのシェック歌曲集「好ましき慎み」の2枚目です。

「好ましき慎み」の後半ということになりますが、前半から続くいくつかのまとまり、そして交代する歌手など、地味ながらも実に目くるめく世界が展開されており、味わい深い作品ばかりです。

イデーなど意味のある楽曲ばかりが人を癒すものではないですが、こういった詩がある作品は実に味わい深い。その代わり、それを伝える歌手にはしっかりとした表現力が要求されますが、ディースカウと白井光子には十分その能力があると思います。

この後半でも際立つのはその発音です。そんなものどうでもいい、哲学がとか言いだす人もいますけれど、いえいえ、その発音こそその哲学に裏打ちされたものなのです。

日本人はその骨格からどうしても口を縦に広げて発生するという形で逃げるのです。そのほうが声は飛んでくれますから。ただし発音はぼやけます。それは歌では決定的にマイナスです。しかもこれは、日本語の歌詞でも同様なのですから。

確かに、戦前は鼻濁音だったのでそれも一つの表現ではあります。けれども鼻濁音は口を縦にあけることだけが方法ではないんです。プロの東混でもその傾向があるのは残念なのですが、遠藤方式で口を横に広げ、口内を縦に広げるほうが発音はクリアで声は遠くに飛んでくれます。

この発声が、ディースカウにしても白井光子にしてもできているんです。だからこそ表現が自在ですし、まるで語っているかのよう。メーリケの「詩」は言葉であるということがわかっているとはこういうことだと感心しきりです。そしてこれがプロの仕事です。

この「横に広げる」というのはどうしても日本人が逃げる発声なんです。オルケストル・デ・ベルの第九をうたった人は経験的にわかると思うんですが、あの遠藤方式の発声は本当にしんどいんです。けれども決まればこれほど歌詞がしっかり客席まで届くものもありません。遠藤先生ももうお年なので、できれば若い人が実践を受け継いでいって欲しいと思います。それだけで日本人の演奏技術は一気に欧州並みになるはずですから。

シェックの和声的でもあり非和声的でもあるこの歌曲集の、そもそものメーリケの「詩」をどのようにとらえ、伝えるのか。それは歌手としては当たり前の基本命題ですが、それがしっかりできていない演奏も数々あります。かといって表現者のほとんどはプロです。伝えるということがどういうことかを教育されているか否かが分水嶺

この演奏、実はメゾとピアニストは収録当時夫婦。そこにバリトンの名手ディースカウが入るという編成です。けれどもその三人は昔から知っていたかのようにメーリケの詩をとつとつと伝えるのです。一見地味に聞こえますが実に深い!派手な表現だけが精神性ではないということを教えてくれると当時に、その地味さこそむしろ表面的なことへのアンチテーゼなのではと、私には聴こえるのです。




聴いている音源
オトマール・シェック作曲
歌曲集「好ましき慎み」作品62
エドゥアルド・メーリケの詩による歌曲)
CD2
(考察)
�@ランプに寄す
�A夜に
�B古典詩(ゲーテに寄す)
�Cサッフォーに寄せるエリンナの歌
�Dヨハン・ケプラー「5つの箴言
�E救い難きこと
�F戦後
�G自筆のアルバム
�H即興(メーリケの小犬、ヨーリに)
�I熱狂者
�J慰め
�K卵に書く
�Lあるピアノ奏者に寄す
�M回復(ある詩の原稿を読んだ後に)
(信仰)
�N祈り
�O羊飼いの少年
�P子供に寄す(ひきむしられた鼻毛を私に見せた子へ)
�Q堅信仰に際して「病に伏して」
�R「ミューズと詩人」
�S病床にて
㉑試練を経た者
(追憶)
㉒ウーラハ訪問
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウバリトン
白井光子(メゾ・ソプラノ)
ハルムート・ヘル(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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