かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:ラヴェル 歌曲集

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介しています。今回は、ラヴェルの歌曲集を取り上げます。

まあ、歌手はフィッシャー=ディースカウですから、それほどレアなものであるはずはないんですが、ただ、ラヴェルの歌曲というものが、我が国でどれだけ好まれているかということを考えた時、とてもレアで図書館らしいライブラリだと思います。

ラヴェルといえば、印象派の作曲家として、管弦楽作品やピアノ曲で圧倒的に有名なのですが、歌曲も数多く作曲していることは、あまり知られていないんじゃないでしょうか。知る人ぞ知るという存在に鳴っているように思います。

モーリス・ラヴェル
声楽曲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB#%E5%A3%B0%E6%A5%BD%E6%9B%B2

このウィキを見ても、歌曲はかなりのヴォリュームがあることがわかるかと思います。ただ、このアルバムを聴きますと、ラヴェル印象派というのは、本当だろうかって思うのです。特に、瀬川サロンでドビュッシーの歌曲を解説付きで聴き続けてきた私からしますと、むしろドビュッシーと一緒で象徴主義なのではないかと思うのです。

もちろん、時代的には明らかにラヴェルは年下なので印象派とカテゴライズできると思います。その点は異存ありません。ただ、歌曲に関しては、ドビュッシーの影響が強いように思うので、むしろ象徴主義なんじゃないかって思うのです。

っていうか、印象派っていう表現、本当に正しいのかと、ラヴェルの歌曲を聴きますと思うんです。絵画の印象派は確かに、リアルを自分の主観で表そうとした運動です。音楽もそれに近いものはあります。ただ、作品が文学や絵画を元にした時、主観ですべて作曲したのか、それとももととなるものの象徴として作曲したのかは、とても曖昧だと思うのです。となると、印象派というカテゴライズも、その音楽運動を正しく表現するものだろうかと、最近私は考えています。

ドビュッシーが決して印象派という表現を使わなかったのは、完全主観などないと信じていたからではないかと思います。確かに人間は主観ないきものですが、その主観すら、何かに囚われていることはないかと考えた時、ドビュッシーの「象徴主義」という考え方は意外にもとても謙虚な姿勢だと思うのです。そしてラヴェルがその思想を受け継ぐものであれば、単純に主観のみの「印象」というだけではない音楽であることは、当然のことだと言えます。

その代表作を、私達日本人は管弦楽作品で知っています。「ボレロ」です。機械をまるで人間のように生命を吹き込む・・・・・機械を象徴しながら、機械そのものを表現はしない。これが本来の印象派なのではと思います。ラヴェル象徴主義を一歩進めただけだったのかもしれません。それをわたしたちはあえて「印象派」と呼んでいるだけのように思います。

ここに収録されている歌曲も、わたしたちのそれこそ「印象」として受け止めている印象派とはすこし違った音楽のように思います。ディースカウは、そのせいか決してどこかぼやけた演奏をせず、歌詞をしっかり噛み締めて歌っているのが印象的です。ときには浅い発声も混ぜながら、歌詞を大事に歌っているのです。だって、歌ですもんね。当然といえば当然だと言えますが、ここ、わたしたち日本人だと勘違いしかねない部分だと思います。印象派だからぼやけさせて・・・・・・いや、違う!そんなディースカウの決意表明かのような。

だって、まずは歌詞があるわけなのですから。日本の歌謡曲なら、まず旋律ありきで歌詞がつくことが多いので、ぼやけてということもあるかもしれませんが、けれども、歌詞がぼやけてなんてこと、あります?例えば、六八コンビの「帰ろかな」とか。無いはずです。特に演歌で、ぼやけてとかは一切ないはずなのです。歌詞をはっきり歌うはずです。むしろぼやけさせてというのはJpopのほうが顕著です。それになれてしまうと、なぜディースカウが歌詞をはっきり歌うのかが、わからないように思うのです。

クラシックの歌曲の場合、まず歌詞が先にあることがほとんどです。つまり、詩人が詩を書き、その詩に感動して作曲家が曲をつける・・・・・その運動の中で、自分の感動する心を大切にするというスタンスを大切にする運動こそ、ロマン派であり、その延長線上にもある印象派なのです。これは西洋哲学の永遠の主題である「そこにあるものをどう考えるか」という思想の、一つの表現だと言えます。ディースカウの歌唱には、自然と西洋哲学が背景にあることを教えてくれます。それを歌曲というとても短い中に詰め込んであるものを的確に表現するための、一つの素養のように思います。

自ら考えない日本人だからこそ、印象派の歌曲には目を向けないのだと言ってしまえば、言い過ぎでしょうか・・・・・そんなことはない!と宣言してもらえると嬉しいのですが。




聴いている音源
モーリス・ラヴェル作曲
暗く果てない眠り
二つの博物誌
博物誌
5つのギリシャ民謡
民謡集
ロンサールここに眠る

ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン=キホーテ
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウバリトン
ハルムート・ヘル(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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