かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:加耒徹バリトン×瀬川玄ピアノ ドビュッシー歌曲コンサートを聴いて

コンサート雑感、今回は平成30年1月27日に聴きに行きました、加耒徹氏と瀬川玄氏によるドビュッシーの歌曲のコンサートを取り上げます。

以前より、FBFから加耒さんの歌は如何ですかと誘われていたのですが、なかなか予定が合わず、今回ようやく足をはこべることとなりました。

瀬川玄氏はいぜんよりこのブログでもご紹介していますが、加耒徹(かくとおる)氏は初出となりますので、ご紹介しておきます。新進気鋭のバリトンで、バロックから現代まで幅広く活躍するソリストです。それもそのはず、加耒氏はBCJのメンバーなのです。

https://ameblo.jp/kakutoru/

ですので、以前から私も興味を持ってはいたのですが、ようやくライヴで聴く機会が巡ってきたことは、本当にしあわせです。

とはいうものの、実は前半は聴けなかったのです。1月27日と言えば、その週明けの月曜日、大寒波で関東は大雪になった週でした。そのため、色々な予定が私は詰まり気味で、ようやく出かけた時にはすでにかなりきつい時間でした・・・・・

その上で、今回のコンサートは、実は瀬川氏が持つスタジオが会場でした。それは成城の住宅地のど真ん中・・・・・詳しい場所は個人情報なので明かせませんが、そんな場所なので、初めどこにあるのかがさっぱりわからず、迷子に。

迷子になるなんて、もうウン十年ぶりです。え、20年ぶりくらいじゃないんですかって?嬉しいですねえ、そういってくださるのは。でも残念ながら、年齢的には以前迷子になったのは相当前なので・・・・・

プログラムはほとんどがドビュッシーの歌曲で、歌曲以外はピアノ作品のイマージュ ピアノ独奏第3番だけです。それがこのコンサートの素晴らしい点です。その上、両者による解説付き。だから頭から聴きたかったんですが・・・・・大雪のばかあ!

・・・・・さて、叫んですっきりしたところで(って?)、では何が聴けたのかと言えば、ヴェルレーヌの詩に歌を付けた、「忘れられし小唄」です。ウィキでは「忘れられたアリエッタ」で出ています。

クロード・ドビュッシー
歌曲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC#%E6%AD%8C%E6%9B%B2

このウィキは結構すぐれものです。当日の解説では触れられなかったことが書いてあります。で、それは納得なんですね。この歌曲の最後2曲の「グリーン」と「憂鬱(スプリーン)」は、「水彩画」とあるんですね。これぞドビュッシーらしい作品だと言えます。絵画を象徴主義的に描いたとも取れますし、また印象派の絵画のように、ぼんやりとした表現の中でフォーカスする対象を描いたとも取れる、真にドビュッシーらしい作品です。

1886年に着手され、完成が1888年。まさに若きドビュッシーの芸術が花開かんとする時期です。ですから印象派というかっちりしたものになっているはずもなく、そしてその象徴主義とも印象派ともとれる芸術と言う、ドビュッシー作品の特徴が形作られた時期の作品でもあるんです。

ですから、この作品はドビュッシーらしい作品なのです。と同時に、これは当日解説でも述べられていましたが、当時の世紀末の芸術の影響もたっぷりと受けた、所謂「アンニュイ」な表情を持つ作品でもあるわけなんです。

特に、最後の水彩画「憂鬱」の最後の言葉が、「あぁ」なんです。この嘆息!古典派的〜後期ロマン派では決して使わないような歌詞を、ここで採用し、しかも曲の最後に持ってくるのは、音楽史から言えばまさに画期的なんです。多分今でも、そんな歌詞はほとんどないですよ。例えば、JPOPで想像してみてください。最後が嘆息で終わるなんて、椎名林檎ですらなかなかないです。それだけ、このドビュッシーの歌曲が音楽史上どれだけラディカルなのかがお分かり頂けるかと思います。椎名林檎と言えば、「歌舞伎町の女王」や「ここにキスして。」など、デビュー当時からアンニュイな歌詞にもチャレンジする才能豊かなアーティストですが(なぜなら、椎名林檎マレーネ・ディートリッヒをリスペクトしていますので)、その彼女をしても、このドビュッシーの歌曲「忘れられた小歌」に匹敵する作品はないんです。

それを、バリトンが歌いますと、懸念されるのは、男声なので妙に力が入ってしまいかねないということ。しかし加耒氏は絶妙に力を抜いて、のびのびと、ゆえに朗々と、その「アンニュイ」な表情を歌で表現するんですね〜。うっとりしました、本当に。そして加耒氏の実力を、まざまざと見せつけられたと思います。

こう、さりげない技術が、私達の感動につながっているんですよね〜。ですから、聴けなかった他の作品も素晴らしかったのは推して知るべしです。でもできればそれも聴きたかった〜最後の曲が素晴らしかっただけに。

瀬川氏のピアノも評価して置かなくてはなりません。かつて入っていた合唱団で、練習終了後練習ピアニストと一緒に飲む機会が何度もありましたが、そこで教えてもらったのは、ピアニストに取って実は一番大変なのは伴奏をすることだ、なぜなら、独奏なら自分の技術だけ磨けばいい、でも伴奏は相手としっかりアンサンブルしないといけないからだ、ゆえに練習ピアニストだけで終わるか、ソロもできるかは、その後のキャリアを決定づけるんだ、と。とても印象に残っています。

その上で瀬川氏は、先日横浜で聴いたベト4でもそうでしたが、自分のスタイルを貫きながらも、しっかりとアンサンブルする相手と対話を重ねたうえで、音楽を作りあげているのです。ですので聴いていて歌とピアノが一体となり一つの芸術が完成しているのです。聴いていて自然で、かつ二人の個性がしっかりと味わえるのが、とても幸せです。これぞ真に民主的な演奏だと言えるでしょう。

つい、ピアニストには承認欲求が強い人もいるので、そういった人は前へ出てしまいがちなんです。声楽もそのように前のめりの作品であればそれでいいと思いますが、このドビュッシーの作品はアンニュイだからこそ、それほど声楽が前に出ません。そういった作品を伴奏するためには、おなじように前に出ない配慮が必要です。それって簡単なようで難しんです。だって、表現するということは、一ブロガーである私自身もそうなんですが、承認欲求があって初めて成立するんです。その承認欲求を、表現するのに手放さないと行けないわけなんです。だからこそ、難しいのですが、それをいとも簡単に瀬川氏はやってのけてしまうんです。勿論それには十分な練習と「打ち合わせ」という対話の場がないと行けないわけなんですが、それでも承認欲求が強すぎる人は前のめりになりアンサンブルをぶち壊します。それが瀬川氏には微塵も感じられないんです。ベートーヴェンのピアノ・ソナタではしっかりと個性が前へ出るにもかかわらず、です。

これがJPOPなど、クラシック以外のジャンルの音楽では味わえない、クラシックならではの素晴らしい時間だったと思います。また同じような機会がありましたら、また足をはこびたいなと思います。私など、感動してその夜府中市立図書館でCD借りてしまいました・・・・・それについては、また別の機会に。




聴いてきたコンサート
加耒徹バリトン×瀬川玄ピアノ ドビュッシー歌曲コンサート
クロード・ドビュッシー作曲
星の夜
美しき夕べ
麦の花
マンドリン
森の眠り姫
イマージュ ピアノ独奏第3番
春が来た
感傷的な風景
忘れられし小唄
加耒徹(バリトン
瀬川玄(ピアノ)

平成30年1月27日、東京世田谷、瀬川玄スタジオ

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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