かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:樫本大進とコンスタンチン・リフシッツの ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全集10

今月のお買いもの、昨年4月にe-onkyoで購入したベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集をシリーズで取り上げて、ようやく第10番までたどり着きました。

ここまで購入から約1年。最近コンサートへ行くほうが多くなったので、取り上げる頻度と数は少なくなっていますが、それもまたクラシック音楽の楽しみ方というものです。

さて、第10番は中期にまとまって作曲されているベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの中でも一つだけポツンと違う時期に作曲された作品ですが、そんな第10番をまるで愛おしく思うような二人の演奏は、聴いていて飽きないです。もう、ヘビロテ。

アタッカになっている楽章も、二人でニヤリとしているかのようなタイミングで、本当に楽しんでいます。どんなに美しい演奏であっても、やはりソナタはまず演奏者が楽しんでいないと始まらないって思います。多分、そのふと考えてみればあたりまえなことを気づかせてくれる、名演だと思います。特にそれを感じるのが、この第10番なんです。

二人の生き生きとした演奏はクライマックス。静かに始まる第1楽章でも、ffからppまでを存分に思い切りよく使い、しかもそれが二人の息がピッタリなことへつながっています。こういう素晴らしい関係性こそ、ソナタの醍醐味だと思います。

その関係性において、どちらがどうとなかなか言えないと思いますが、少なくとも私は樫本がリフシッツに与えているいい影響は計り知れないでのはないかと以前から思っていますが、その影響はこの第10番で最も強く出ている様に思います。対話の中で気がついて覚醒していく様子が、この全集の醍醐味だったなあと、この第10番を聴いて思います。

特に、ベートーヴェンとなると、どうしても壮年期というか、中期までの激烈で情熱的な作品を想像される人が多く、ベートーヴェン像をその壮年期のみに求める人が多いのですが、ベートーヴェンという人も人間として、変化するのです。もちろん、変化していない部分もありますが・・・・・

この第10番で言えば、激烈さというのは影を潜めているという点です。それは、ベートーヴェンがこの第10番を作曲した年齢に近い私としてはとてもよく分かることで、若い時とはどうしても体が違うので、その性格も多少変化してくるのです。もっと言えば、自分の老いを自覚するというか・・・・・

それを、私よりも10以上年齢が若い二人が、絶妙に演奏しているんです。激烈ではないが、しかし残っている情熱。まだまだ生き生きとはしているが、流石に激烈な部分は年とともに少なくなってきているという時点の作品を、実に立派に「歌い上げて」います。これが本当にヘビロテの理由だって思います。そう、そうなんだよ!という私自身の共感によって。

なんという感受性の発露!思わず私など涙が出てくるんですが、まだ若い二人はそんなことはなく、むしろそのまだ残っている情熱を讃歌として歌い上げるんです。そうか、まだ私もできることあるよなって、勇気づけられます。

世の中はメッセージ・ソングばやりですが、特にメッセージがないこの第10番のような作品ではっきりとしたメッセージを貰えるなんて思いもしません。けれどもこのような経験ができることこそ、クラシック音楽だって思います。

さて、この第10番で終わりかとおもいきや、実はおまけがこのアルバムにはございまして・・・・・それはまた、次回に。





聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ヴァイオリン・ソナタ第10番ト長調作品96
樫本大進(ヴァイオリン)
コンスタンチン・リフシッツ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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