神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、ブラームスの鍵盤楽器作品全集をシリーズで取り上げてきましたが、今回はその最後、第10集です。そもそもはブラームス全集の一部であることは、第1集を取り上げたときに言及しました。
さて、鍵盤楽器というときに、楽器は何を想起しますでしょうか?ピアノ?チェンバロ?この2つともたしかにそうですね。けれども意外と忘れてしまうのが、オルガン、です。
オルガン曲には、宗教色が強いせいなのか、我が国ではあまり鍵盤楽器に入れることがないんですが、物理的には立派な鍵盤楽器です。そしてそのオルガン作品も、ブラームスは作曲しており、其の殆どが宗教曲です。
この第10集に収録されている作品の半分ほどは、作品番号はなくWoOですが、実に面白い作品たちが並んでいます。ピアノでは伝統というものを存分に意識していたブラームスが、オルガンですとむしろ時代を先取りするような和声の作品を書いているんですね。
WoOの4つは1856〜58年にかけて作曲された作品で、結構保守的な作品も並んでいます。一方作品番号がついている「11のコラール」は和声的には先取りする部分もあり、本来なら、反対になるはずなのです。コラールでオルガン曲ということは、先にコラールが存在し、それをアレンジするということが普通なのですが、ブラームスは必ずしもこだわっていないんです。それもそのはず、この作品122は、作品番号ではブラームス最後の作品で、1896年の作品だからです。
1896年という年は、ブラームスが没する1年前であるのと同時に、世紀末でした。ドビュッシーが作品をどんどん発表していた時代でもあり、ちょうど時代が移り変わるときだったのです。
ブラームスは自身の様式を変えることはありませんでしたが、あたらしいものに寛容でもあったことは、彼が多くの若い才能を支援していたことから明らかです。このブラームスの幅広さと才能の豊かさは、精神性とかいうフィルターを通してだと見えてこないのでないかって思います。そのために、フランスの作曲家のほうが素直でよいとなってしまうんだろうと思います。視点を変えれば、愛ってすばらしいよね!としか書けないってことにもなりかねないんですが・・・・・それは本当に豊かなことなんでしょうか。愛の貧困さを物語らないでしょうか。
ブラームス自身は、こういったオルガン作品以外ではあまり宗教曲を書いていませんが、それは時代というもので、決して敬虔ではなかったわけではありません。反ユダヤ主義を「狂気の沙汰だ」というようなリベラルな思考を持った人だからこそ、宗教曲にこだわらなかっただけだと言えるでしょう。
演奏するは、ペーター・ブラニャフスキー。あまり知られていないオルガニストですが、後期ロマン派らしい、繊細な作品に生命を宿させています。ときに「枯れた感じが良い」と言われるブラームスの作品を繊細かつ淡々と弾くことにより、その内包する「命」が浮かび上がるのです。それは私自身に、生きるとはなにか、愛するとは、愛とは?と問いかけてきます。その答えが聴いていてすぐ心に浮かんでくるわけではありませんが、常に自分に問うておかねばならないなと思い起こさせる、素晴らしい演奏であると思います。
こういった作品、演奏を聴かずに、やれオルガン曲は抑圧的だとか言ってほしくないですね。
聴いている音源
ヨハネス・ブラームス作曲
前奏曲とフーガ イ短調WoO9
コラール前奏曲 イ短調(おお悲しみよ、心の苦しみよ)WoO7
前奏曲とフーガ ト短調WoO10
フーガ 変イ短調WoO8
11のコラール前奏曲作品122
ペーター・ブラニャフスキー(オルガン)
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