かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ「音楽の捧げもの」

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はバッハの「音楽の捧げもの」を収録したアルバムを御紹介します。

さて、バッハだと私の場合、図書館で借りてこようがCDを買おうが、モダンとピリオド二つの演奏を手に入れるようにしています。なぜなら、現代のピアノはバッハの時代には存在しないから、です。

ところがです、フォルテピアノはすでに存在していました。けれどもまだポピュラーとは言いがたく、バロックにおける鍵盤楽器と言えばチェンバロもしくはオルガンのことを指します。それはそれで間違っていないのですが、この「音楽の捧げもの」に関しては、ピアノのための作品なのです。

音楽の捧げもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%8D%A7%E3%81%92%E3%82%82%E3%81%AE

フリードリヒ大王から提示された主題は、あくまでもフォルテピアノでの演奏を念頭に置いています。ですからバッハもフォルテピアノでの演奏を念頭に作曲しているのです。このエピソードが、すべてのピアニストをして、元々チェンバロやオルガン曲でさえも、ピアノで演奏しようと言うモチベーションにつながっていると言えるかと思います。

つまりは、バッハの守備範囲の広さ、或は先進的なものへの興味を示すものです(それは多分に敬虔なルター派信者としての宗教的な理由でもありましたが)。そもそもがバッハの作品には拡張性があって、ならピアノでも演奏できるはず、ということからです。

バッハはここで、大王から提示された主題のカノンを、縦横無尽に使用しています。そしてその上で、まるで変奏曲のようにすら作りあげているのは見事です。ただ、音型としてはまだチェンバロの領域を出ておらず、当時のクラヴィーアがまだ非力だったことを物語ります。けれどもそれは視点を変えれば、バッハはチェンバロ弾きであったからこそ、当時のクラヴィーアの性能を最大限に引き出す作品を書くことができたとも言えるでしょう。あ、弦を叩くけれど、音色も異なるけれど、音量は対して変わらないんだ、なら、チェンバロの延長線上で書けるはずだ、と。そこがバッハの天才的才能だと言えるでしょう。

であれば、現代のピアノで演奏することは、一方では非ピリオドなのですが、しかし現代に置いてはピアノこそモダンの楽器であると言えるわけなのです。本来のフルート協奏曲をリコーダーでモダンでも演奏するのと一緒であるわけなのです。そこでどんな化学反応が起こるかが、聴くほうとしては楽しみになるわけです。

けれども、演奏するリフシッツは、ちょっと構えすぎているなって思います。もともとクラヴィーア曲なのですから、モーツァルトのクラヴィーア曲を演奏するかの如く、思い切ってのびのび演奏してもいいのになあって思います。いい演奏なのですが、どこかでバッハに遠慮しているような印象を、何度聴いても受けるんです。せっかくクラヴィーア曲なのにもったいないなあって思います。

むしろ、カップリングのフレスコバルディのほうがのびのびとしており、生命力豊かです。なのであまりにもバッハと大王の関係性だけで固くなっているように思うんです。けれども、バッハはそんなにかしこまっていたんだろうかって思うんです。確かに、題名は「音楽の捧げもの」です。けれども、エピソードの一つ一つを検証すれば、バッハは確かに相手は王ですが、一人の尊敬する音楽家としてしか見ていないように思うのです。

そもそもがそうであるならば、別に荘厳さとかを強迫的に捉える必要性はなく、むしろ自家薬篭中のものとして堂々と演奏したほうが、作品の生命力が滲み出ると私はおもいます。その意味では非常に残念な演奏です。

それはもう一つのカップリングであるオルガン作品である「クラヴィーア練習曲集」の第3集から、最初と最後を抜き出して演奏しているのでも顕著です。バッハ作品はもっとのびのび演奏していいと思うんですよね、まぢで。

クラヴィーア練習曲集 第三部
http://www.music.qub.ac.uk/tomita/essay/cu3j.html

多分、これもネームヴァリューに囚われすぎているって思います。バッハとしては、「どうだ!」という感じなのに、どこか負けてしまって「へえ〜、御代官様〜」って感じなのです。二つの作品とも、バッハが苦労して紡ぎだした「解」であることには間違いありませんが、そこには壮大で爽快な世界が広がっています。その世界をどれだけ楽しむのかが重要であるはずです。「クラヴィーア練習曲集第3部」の初版にはこう献辞が付いています。

「教理問答歌およびその他の賛美歌に基づく
オルガンのための種々の前奏曲集。
愛好家、および、特にこの種の作品に精通する人たちの心の慰めのために。
ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、
およびライプツィヒ音楽隊監督、
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。」

バッハが作品の向こうに見て居たもの。それは、王侯貴族であろうが誰であろうが、「演奏家」と「聴衆」です。確かにベートーヴェンのような自由はありません。しかし、バッハもベートーヴェン同様に共和主義的な部分があり、王侯貴族だからと言って何か特別扱いして作品を書いているわけではないってことなのです。ですからバッハの作品はそれゆえに難しい場合もしょっちゅうです。演奏者だけではなく、私達聴衆にとっても難しい場合がありますが、それでも「相手は単に人間しか見ていない」と考えれば、作品が持つメッセージは聴く人、演奏する人の数だけあると言っていいでしょう。

ですから、ネームヴァリューに囚われないフレスコバルディは生き生きとしているんだと思います。ウィキではリフシッツを賛美する記述になっていますが、私は指揮者としてのほうが興味深いかなって思います。

コンスタンチン・リフシッツ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%84

確か以前、「結婚カンタータ」をリフシッツの指揮と復元でご紹介しているはずです。他者とコラボレーションして、みずからの囚われを気づかせてくれるアンサンブルのほうがいい面が出るように思います。もうすこし自分の解釈を熟成して、演奏したほうが、一転してすごい演奏になるように、私には思えます。せっかくモダンのピアノで演奏しているんですから。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
音楽の捧げものBWV1079
前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552(コンスタンチン・リフシッツ編曲)
ジローラモ・フレスコパルディ作曲
トッカータ第1番
トッカータ第2番
トッカータ第3番
コンスタンチン・リフシッツ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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