かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:ドビュッシー 聖セバスチャンの殉教

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリを御紹介していますが、今回はドビュッシーの「聖セバスチャンの殉教」を取り上げます。

キリスト教ではコアな部分を占める、殉教。それはまず教祖のイエスから始まり、弟子たち、またその後の聖職者たちと続く、キリスト教の運命とも言える出来事でした。

そのうちの一人に、聖セバスチャンがいます。

バスティアヌス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9

なんでこんな人が殺されるのかと言えば、キリスト教が禁教だったから、なのです。ローマは共和制の時代と帝政の時代とに大きく分けられますが、いずれにしても共通しているのは、富や欲求の追及が善だと言う信仰、なのです。ですから、禁欲的で水平的な(言い換えれば、平等を掲げる)キリスト教は忌み嫌われる存在でした。それがしかも、国が衰退期に入り、水平的な社会がやってきて社会が混乱しているさなかなら、なおさらです。

古代ローマ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E

ちょっと想像つかないって?いえいえ、そんなことはありません。今、私たちが生きている現代日本でも、普通に起っているんです。例えば、極右による左翼・リベラルたたきや、ヘイトスピーチがそれです。同じような状況が、キリスト教徒に対して行われていたのが、聖セバスチャンが生きた時代だったのです。

なぜ、こんな解説からまず入ったのかと言えば、この聖セバスチャンが生きた時代と、殉教の理由をまず述べておかないと、この「聖セバスチャンの殉教」という作品を説明するのに、難しくなるからなのです。だからこそ、ウィキですら何を言っているのかよく分かりません。

セバスティアンの殉教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AE%89%E6%95%99

歴史的事実は、ウィキの通りなのですが、でもなぜ、初演が大問題になったのか、それ以前になぜ、この作品が成立したのかが分からなくなります。そこを知っていないと、この作品はちょっと難しいんです。確かに旋律はドビュッシーらしい、まさに象徴主義というべき作品なのですが・・・・・

まず、押さえておきたいのは、この作品は神秘劇なので、劇音楽だということなんです。つまり、グリーグの「ペール・ギュント」やベートーヴェンの「エグモント」と同じなんです。しかも、本来は4時間を超える超大作です。けれども、ウィキにもこの演奏が挙げられていますが、1時間の短縮版というのは、殆ど音楽の部分だけ抜き出しているから、なんです。

ドビュッシーの音楽を聴きに来た人であれば、4時間越えはさすがに厳しかったでしょうし、演劇を見に来た人でも同様だったと思います。しかし、テクストがよければ長丁場など問題にはならないものです。例えば、休憩があったとしても、映画「サウンド・オブ・ミュージック」がその好例です。

サウンド・オブ・ミュージック (映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

もともとのミュージカルも優れたものだったことから、映画も大ヒットしました。ですから、「聖セバスチャンの殉教」も、テクストが良いものであればそれほど紛糾しなかったでしょうし、また現代においても原作通りに上演されるでしょう。

いや、とても優れているんです。しかし、19世紀末〜20世紀に掛けては、演劇は大衆文化となった時代です。大衆相手には、時間が長いうえに、わかりにくい設定だったことが、私は紛糾した原因だと思っています。

まず、主人公聖セバスチャンは、実は本人ではなく、その「霊」となっているのです。言い換えれば「魂」です。つまり、聖セバスチャンはそこにいますが、じっさいには生きていない設定なんですね。

もっと言えば、生死の境をさまよっている状態だと言えるでしょう。そこを場面として切り取って、聖セバスチャンの殉教を意味づけているんです。作者のダヌンツィオがこれまた政治的思想の強い人でしたし、社会主義的とはいえむしろかなり右な人です。ゆえに三島由紀夫に影響を与えていますし、この劇のテクストを三島が訳してもいます。是非ともこれは読みたいなと思います。

その上、音楽には物語がなく、旋律的ではないんです。だから、後期ロマン派の音楽にどっぷりつかっているひとからすれば、難解なんですね。それがこの作品の特色であり、欠点でもあります。

当時のダヌンツィオが持っていた背景や、共感するドビュッシーの魂などなど、掘り下げればきりがない作品で、私などはとても魅力的で、現代的なテクストを持つ普遍的な作品だと思いますし、じっさい普遍性、現代性があると当時考えたからこそ成立した作品だと思いますが、それが当時の人たちにはうまく伝わらなかった、と言うわけです。ある意味、想いだけが先へ行ってしまって、何が言いたいのかが分かりにくかったとも言えます。

だからこそ、ゆえにと言ったほうがいいかもしれませんが、教会は反発したわけです。ではなぜ、ユダヤ人系ロシア人だったイダ・ルビンシュタインが主役を演じたのでしょう?それこそ、ユダヤ人がドビュッシーが作曲した当時から、迫害を受けていたからに相違ありません。つまり、この作品は当時のキリスト教会に対する批判でもある訳なんです。イエスを貼り付けにした人たちと同じことを、その子孫であるだけの現代ユダヤ人にしている。その反省はないのか?と言う事です。

ドビュッシーからしてみれば、実力を備え、役にぴったりであればどんな民族でもよかったはずなんです。確かにフランス・バロックを再定義し、そこから象徴主義を紡ぎだし、印象派へと橋渡しをしたのがドビュッシーです。しかし、かれは愛国者であっても差別主義者ではありませんでした。そこは重要な点なのです。

だから、主役はイダ・ルビンシュタインで強行した。それは、そもそも作品の主役を見れば理由など明らかではないか、というわけなんです。だから本来、協力すべき教会は反発し、市民はわかりずらいし長いし、教会には後ろ指刺されたくないし・・・・・と言うことで、当時は不評だったのでしょう。

この録音は、実は主要な役は全てアングロ・サクソン系で、オケはロンドン響。指揮するはマイケル・ティルソン・トーマス。どこにもフランスのフの字もありません。それは暗に、イギリスはフランスと異なり、差別はしないという、ある意味プロパガンダなんですね(共和主義の国で差別されたが、君主制のわが国は君臨すれども統治せずなので、差別しないという)。でもゆえに、鬼気迫る演奏にもなっており、とても聴きやすいです。背景さえ分かってしまえば、音楽にどんどん引きこまれ、この部分はこんなシーンなのかなって想像したりもできます。できれば歌詞も写せばよかったと思っていますが、何分長いんで・・・・・将来、ネットにあがるのを期待することにします。

まあ、録音を残している指揮者を見れば、この作品はとても強いメッセージをもったものだとは理解できるかと思います。ティルソン・トーマスも、現代的な意味をかみしめつつ、絶妙なタクトさばきを見せていると思います。ともすれば難解な作品を、自在な表現でしっかりと浮かび上がらせる手腕は、卓越しています。まさに聖セバスチャンの魂がそこにあるかのようです。




聴いている音源
クロード・ドビュッシー作曲
神秘劇「聖セバスチャンの殉教」(全曲)
シルヴィア・マクネアー(ソプラノ):エリゴーヌ、地よりの声、天よりの声、セバスチャンの霊
アン・マリー(メゾ・ソプラノ):双子の兄弟マルク、地よりの声
ナタリー・シュトゥッツマン(メゾ・ソプラノ):双子の兄弟・マルセリヤン
レスリー・キャロン:語り手(聖者)
マイケル・ティルソン・トーマス指揮
ロンドン交響楽団・合唱団(合唱指揮:スティーヴン・ウェストロップ)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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