かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:デュトワとモントリオール響の「幻想交響曲」

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はベルリオーズ幻想交響曲を取り上げます。シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の演奏です。

幻想交響曲は、以前このブログでも取り上げています。

神奈川県立図書館所蔵CD:ベルリオーズ 幻想交響曲
http://yaplog.jp/yk6974/archive/830

この時はムーティ指揮、フィラデルフィア交響楽団でしたが、正にふくよかかつおどろおどろしさも存分で、作品の魅力がストレートに出ていたように思います。

一方、今回取り上げるデュトワ指揮モントリオール響。うん、確かにいいんですよ。アンサンブルも素晴らしいし、表現力も豊かで、さすがプロ、なんですが・・・・・

モントリオール響の魅力って、きれいで豊潤なアンサンブルだと思うんです。例えば、断頭台への行進では、美しい部分が散見されるんです。いや、プロですから、美しさを追求して当然なんですが、何か、明るい部分があるなって思うんです。

その意味では、果たしてストレートにこの作品の魅力を表現しているのかなって、久しぶりに聴いた1回目では、素直にそう思ったのでした。

で、たいていこのブログを書くときには、2、3回繰り返して聴いていることが多いのですが、3度目くらいに、ああ、デュトワはそんな単純な解釈じゃないな此れ、って気づいたんですね。モントリオール響だからこそ出せるものを追求した演奏なのだと、気が付いたんです。

例えば、断頭台への行進の場合、これは主人公の妄想の物語です。それは失恋と密接に絡み合っているわけなんですね。ですから、そこには終った恋の、美しい部分が必ずあるはずだという確信に基づいた解釈になっている、と言うわけです。

そういえば、私もいくつもの女性が通り過ぎて行ったけど、自分が愛されていると言うことも気づかなかったけど、美しい部分だけが思い出されるなあって思います。ならばそれは幻想交響曲においても同じであるはずなんですね。

実はこれを借りてきたのも、自分の「棚卸」の最中でして、自分の人生を振り返る一つの手助けとして、すでに借りてはいますが、また別の演奏も聴いてみたいと思って借りたのでした。当時はこの幻想交響曲が持つ背景とエネルギーしか受け取れず、それも一面的だったのですが、再び今聴いてみますと、自分の人生と突合して、いや、そんな単純なものではないなと思います。

それに気が付けただけでも、この演奏を借りた意味は大いにあったと思います。

カップリングの序曲「海賊」作品21は、幻想交響曲のイメージが強い人には驚きをもって受け取られること間違いなしの明るく爽快で生き生きとした作品で、まさにモントリオール響のアンサンブルにぴったりだと思います。そしてこの二つの作品が並んでいることで、ベルリオーズという作曲家に対する私たちのイメージと言うものに、異議を申し立てている様にも思います。

確かに、あまりにも私たちはベルリオーズと言えば幻想交響曲のイメージが強いんですが、そもそもはベルリオーズは「管弦楽法の父」と言われていることに着目するほうが、楽しめるのではないかなって思います。幻想交響曲のイメージだけだと、いろんな場面、表現がないと不全感が残ってしまいますが、いや、いろんな手法を持っているってことは、いろんな作品がかけるひとなんだと分かりますから、この作品はこのような切り口なんだなと納得視させすれば、「海賊」のような単純な作品だって存分に楽しめるってわけです。

クラシック音楽とは複雑だけど、見てくれもそうじゃないといけないってわけではないでしょ?と、デュトワモントリオール響に言われているような気がします。




聴いている音源
エクトル・ベルリオーズ作曲
幻想交響曲作品14
序曲「海賊」作品21
シャルル・デュトワ指揮
モントリオール交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村