かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:飯守泰次郎 ベートーヴェン交響曲全集3

今月のお買いもの、平成29年1月に購入したものを御紹介しています。飯守泰次郎/東京シティ・フィルのベートーヴェン交響曲全集をシリーズで取り上げていますが、今回はその第3集を取り上げます。

この第3集では、運命と田園が収録されています。この二つがカップリングされるのは鉄板ですね〜

運命のカップリングと言えば、シューベルトの「未完成」、あるいは田園と昔は決まっていたものでした。決して番号順になっていな中で番号順になったのも、何かの縁だと言えるでしょう。

さて、演奏はと言えば、運命は実験的、田園はまさに名演!ということに尽きると思います。運命の場合は、第1楽章から第3楽章まではこれと言って特徴はないんです。すごくステディなのが特徴だと言えるでしょう。しいて言えば、第1楽章はテンポが速めであるにも関わらず、しっかりとフェルマータを伸ばすことで、どっしりとして、気品があり、まさに「運命はこう戸を叩く」という言葉がぴったりです。

それが第4楽章になって一転。テンポの速さが若干仇になっているんですね。この第4楽章はいわば「勝利の音楽」。それまで悩みぬいてきた主人公が、様々な困難を乗り越えて栄光をつかむ、そんな楽章です。それが、テンポが速めなことで、どっしり感が少なく、勝利という感覚が少ないんですね。

その代わり、演奏ができる喜びというものはビンビンと伝わってきますし、アンサンブルの豊潤さも香ります。これはかなりいろんなものを詰め込んだけれど、表現しきれなかったんだなあって思います。そこは東京シティ・フィルというオケの実力をかんがえざるを得ません。がそれは一方で、運命という作品がそれだけ実は奥が深い作品であることを示しています。

ここまで、シティフィルは本当に素晴らしい演奏をしてきました。英雄でもこんなようには感じなかったのです。それが運命になって初めて、何かの壁にぶつかっている、そんか感覚を演奏から受けるのです。プロオケなのに、です。

恐らくですが、飯守氏の要求することに、東京シティ・フィルが追い付いていないんだと思います。それは作品自体がそれだけ深いことなんだと思うんです。運命という作品がどんなものか、もう一度おさらいしておきましょう。

交響曲第5番 (ベートーヴェン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)

暗から明へ・・・・・なぜそうなのかと言えば、そこには、ハイリゲンシュタットの遺書を考えないといけないでしょう。そもそもが、ベートーヴェンは父が酒飲みで、小さいころからモーツァルトのような天才になることを強いられました(結果、別の意味でベートーヴェンは確かに天才になりますが、それは父が意図したものとは別です)。それが小さいベートーヴェンの心をどれだけ傷つけたことでしょう。そのトラウマを小さいころから抱えて生きて来た上に、聴力を失う・・・・さらにトラウマが重なったわけです。

しかし、ベートーヴェンは不屈の精神で立ち上がります。それが、ハイリゲンシュタットの遺書、です。

ハイリゲンシュタットの遺書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%9B%B8

ベートーヴェンにとって、芸術は自分の表現の場所であり、安心できる場所でもありました。その場所があることが自分にとって幸せなんだと気付いたベートーヴェンは、この遺書を書くことで「囚われてどうしようもない古い自分」と決別して、「囚われつつも回復して、芸術に一生を注ぐ自分」へと生まれ変わる宣言をしたのです。それによって、ベートーヴェンは父を「観念的親殺し」により、決別もしています。その喜びが表現となって交響曲において典型的に表れたのが、「運命」だと言えるでしょう。

それまでの作品は、単に芸術的に高い作品が多かったのに対し、この「運命」ではガラリと変わり、嵐のような激しさを楽譜にぶつけています。その分、作曲者の感情は複雑ですし、また荒々しいものでもあります。だから作品自体もそもそも荒々しいものを持っています。その上で、芸術の高みに引き上げてもいるわけです。その本来相反するものがここでは一つのものとして集約されている・・・・・そこをどれだけ理解したうえで、演奏するかということが問われる作品だと思います。

話しは代わりますが、中大オケは今回メインが「運命」ですが、この点は重要だと思います。佐藤先生がどのような解釈をして、どのように振られるかはわかりませんが、ベートーヴェンが心の中で抱えていたものがどんなものだったのか、そしてそれを健康体である自分たちが演奏するには、どのような部分に共感すればいいのか、考えたうえで演奏されるといいと思います。普通の人では経験し得ないことをベートーヴェンは経験しており、どん底を味わったベートーヴェンが立ち上がり、這い上がるために必死になって書いた作品を、自分たちはどう扱うのか・・・・・ここに演奏のポイントがあるように思います。

それは何も中大オケだけではなくて、この東京シティ・フィルも一緒なのです。恐らくその点が欠如していたのでしょう。その後どんな演奏をするようになっているのか、一度聴きに行きたいなあと思う演奏です。

その上で、そこまで事態が深刻ではない「田園」は本当にすばらしい演奏です!ほぼ同時期に完成した第6番は、ベートーヴェンの感受性の豊かさを証明する作品です。ですから、オケもアプローチしやすいと言えるでしょう。ところどころ、普通ならないトリルもありますがそれが全く嫌味ではなく、むしろ作品が持つ「田舎という静かで美しい場所へ来れた喜び」というものが素直に出ていることに貢献しています。

それは一方で、なぜベートーヴェンの作品の演奏で名演が1970年代までに多いのかという説明ができることにもつながります。そう、戦争を体験している人が多いからです。そして生き残ったが同時にトラウマも持って生きています。ですから、作品に共感しやすいし、感情移入もしやすいのですね。

なぜ私がそこまで言うかと言えば、東日本大震災直後の、宮前フィルの定期演奏会を聴きに行っているからです。あの時の宮前フィルの「運命」は本当に素晴らしかったです。美しさの追求とベートーヴェンの魂への共感がしっかりと同居して、感動した演奏でした。それはおそらく、震災を自分たちが経験した一方で、メディアにより津波に飲み込まれる人々を見て、トラウマを持ったが故だと思います。それだけの経験をしないと簡単に感情移入できないくらい、内面において深いものがある作品であり、それだけの経験値が要求される作品なのだと言う事なのです。

コンサート雑感:宮前フィルハーモニー交響楽団第33回定期演奏会を聴いて
http://yaplog.jp/yk6974/archive/756

だからこそ、特に運命の名演は、1970年代、つまり第2次世界大戦を経験していた人たちが当たり前に生きていた時代までに集中している、と言えるでしょう。とはいえ、それがいいのかどうかはわかりません。それだけのことに私たちがどれだけ耐えられるのかを考えれば、その経験が普通であることが良いとは思えないはずです。ですから、ベートーヴェンの音楽を通じて経験し、私たちは明日への糧とするのです。オケにそんな意識があれば、恐らくもっといい演奏になったはずだと思います。

その意味では、自動的に残りが7、8、9であるわけですから、第4集が楽しみというわけです。




聴いているCD
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第5番ハ短調作品67「運命」
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
飯守泰次郎指揮
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
(fontec FOCD9440)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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