今月のお買いもの、今回はシューベルトの交響曲全集の第3集です。第1番と第5番、そして第9番の第1楽章が収録されています。
うー、なんで第1楽章だけなんだ!って気づかない私もいけないんですけどね、安さにつられて^^;
そこで今回は、第1番と第5番だけに焦点を絞りたいと思います。
まず第1番ですが、1813年に作曲されました。詳しい日時まではわかっていませんが、当時在学していたコンヴィクトの楽長の命名祝日ではないかと想像されています。
交響曲第1番 (シューベルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88)
この「コンヴィクトに在学」というのは、シューベルトの音楽を理解するときのキーワードのようです。コンヴィクトではオーケストラ員として演奏に参加もしていますので、その経験が作曲に活かされている部分があるのですね。
そういえば、シューベルトはここまでの楽曲を振り返ってみますと、この1813年からほぼ毎年のように交響曲を生み出しています。それは単に才能だとか、先達がいたとかということだけでは片づけられません。実践の場がないと難しいように思います。
そして前回、第1番にちょっと触れましたがその時にムーティとウィーン・フィルから挑戦状を叩き付けられているかのように書いたと思いますが、それをこの第1番ではっきりと感じざるを得ないのです。
音楽的には、モーツァルトに近いもので彩られており、ベートーヴェンが持つような英雄的な気高さというものは薄いものとなっています。形式的な部分でかろうじてベートーヴェンの影響を見ることが出来る程度です。この点から言っても、シューベルトはモーツァルトを手本にしていることが多いように思うのです。
かといって、軽薄な部分がない点は、恐らくベートーヴェンを想定しているのだと思います。ここに、通常言われる「ベートーヴェンの影響」というのが必ずしも音楽的、つまり旋律的な点ではないことがはっきりとわかります。
第5番になりますともっと顕著でしょう。
交響曲第5番 (シューベルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88)
編成の小ささや、そもそも私的な目的(つまりサロン用)の為に作曲されたという経緯を見ても、モーツァルトやハイドンと言った作曲家を念頭に置いていることは明らかで、その点が逆にシューベルトの交響曲を不当に評価を下げてきた理由かと思います。しかし、ではウェーバーは?となるとだんまりを決める評論家が少なくありません。
だからこそ、この交響曲でもですが、ベートーヴェンの影響とは、ベートーヴェンがハイドンやモーツァルトの作品を研究して交響曲を作曲したように、シューベルトも同様にハイドンやモーツァルトの作品を研究して自分の創作をしている、その点こそがベートーヴェンの影響であると言っていいと思います。
ウィーン・フィルですから演奏をどうのこうの言えることはないと思います。せいぜい第9番の第1楽章だけというのはやめてくださいとしか言いようがありません。しかしこうは言えます。その端整な演奏ゆえにシューベルトの作品の特徴がききとり易く、私たちにシューベルトの作品の再認識を迫るものである、と。
ここまで聴いてきて思うのは、ウィーン・フィルの演奏ゆえなのか、とても音楽が豊潤で、聴いていて楽しいという点です。他の作曲家は感動するということが多いかと思いますが、ここまで聴いてきた演奏はどれも楽しいのです。シューベルトがモーツァルトに範を取っているせいもあるのかもしれません。そしてそれこそウィーン・フィルとムーティが言いたいことだとすれば・・・・・
歌曲的だという批判は、果たして正しいのかと自らを省みる必要がありそうです。
聴いているCD
フランツ・シューベルト作曲
交響曲第1番ニ長調D82
交響曲第5番変ロ長調D485
交響曲第9番ハ長調D944(今回は取り上げず)
リッカルド・ムーティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(Brilliant Classics 92778/3)
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