かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:グノー 交響曲第1番・第2番

今月のお買いものコーナー、今回は平成26年9月に購入しました、ナクソスから出ているグノーの交響曲を取り上げます。

グノーって、誰?っていう人も多いかと思いますが、「グノーのアヴェ・マリアの人です」って言えば、ふーんって言う人もいるかもしれません。

シャルル・グノー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC

時代としては、前期ロマン派の作曲家と言えるでしょう。だからこそ、バッハの平均律クラヴィーアを声楽曲でなんて発想をするわけなのです。以前シューマンメンデルスゾーンの時に触れているかと思いますが、基本的に古典を全否定するのではなく、古典の音楽を基本としてもっと人間の感性、感情を前面に出す音楽の時代がロマン派だからです。

で、グノーは交響曲を二つ作曲しており、だからこそこのアルバムはグノー交響曲全集という事になります。基本的にグノーは声楽曲が得意だった人のようで、だからこそ交響曲を二つしか残さなかったと言えます。

ウィキで記述がある通り、二つの交響曲ハイドンモーツァルトの影響が強い作品です。第1番ではどこかしらベートーヴェンの8番らしい雰囲気もありますが、もっとも強く影響を受けているのはハイドンモーツァルトだと言えます。

端的に言えば、第1番はハイドン、第2番はモーツァルトを研究した結果の作品であると言えるかと思います。ただ、この二つの作品、問題にすべきは第3楽章だと思っています。

ウィキでは、スケルツォではなくメヌエットとあるのですが、ナクソスの解説では、スケルツォメヌエットという記述があるのです。こんなことが起りえるのか・・・・・

こんな時は、その二つを検索してみましょう。

メヌエット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88

スケルツォ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A9

通常は、メヌエットに代わりスケルツォという流れに音楽史上なる訳なんですが、こう見てみますと、実は両立可能なのでは?と思えてきます。なぜか。

メヌエットはあくまでも拍のアクセントを意味する言葉です。そして、スケルツォは楽曲の性格です。だとすると、実は両立するという事になります。

つまり、グノーはこの二つの交響曲で、ベートーヴェンよりもさらに古い様式を、ロマン派によみがえらせようとした、と考えるのが自然でしょう。感情よりも旋律や形式の美しさを前面に出した作品で、前古典派回帰とも言うべき作品です。

もし、この二つの作品をドビュッシーが聴いたら、そりゃあ、めたくそに言いますがな・・・・・

ただ幸いに、この二つの交響曲は、1855年に作曲されているので、直接初演をドビュッシーが聴けるはずはありません。ドビュッシー1862年生まれなので。ただ、盛んに演奏されていたのは聴いているでしょうし、交響曲を聴いていなくても、グノーのオペラを聴いている可能性はあります。ただ、ドビュッシーの音楽の根底には、グノーの時代のフランス音楽シーンが流れていることはたしかで、だからこそ、感情というよりは象徴という、芸術表現の極致とも言うべき世界を切り開いていったのだと思います。

ドビュッシーが作曲を始めた時代は、グノーは壮年から晩年に当ります。ちょうど絵画であれば自然主義から象徴主義、そして印象派という流れを音楽も辿るわけですが(前期ロマン派〜後期ロマン派〜象徴主義印象派)、ちょうど象徴主義を用意する時代であったわけです。

そんな時代に、グノーの姿勢はまさしく、愚直に前期ロマン派「まで」の音楽を作り続けるということだったのだろうと思います。つまり、保守的な作曲家であったと言えるでしょう。しかし、新しいことを完全拒否したわけではなかった・・・・・それが、この二つの交響曲である、と言えます。

なぜですか?と言われそうですが、上でなぜ、私がベト8を出しているか、です。何の脈絡もなく出しませんよ〜

交響曲第8番 (ベートーヴェン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)

メヌエットに替えてスケルツォを推進してきたのがベートーヴェンですが、その本人が、メヌエットスケルツォの融合をやっているんです、すでに。グノーがこれを知らずに作曲したとは思えません。つまり、グノーの2つの交響曲は、影響としてはハイドンモーツァルトが強いけれど、実はその根底にはベートーヴェンが流れている、といえるでしょう。特に、第2番の第1楽章はまるでベト8の第3楽章がソナタ形式でよみがえったかのようです。

グノーが生きた前期ロマン派という時代は、ベートーヴェンが神格化されて楽聖と呼ばれる一方、それ以前のハイドンモーツァルトの作品が見直された時代です。その上で、自分たちの作りたい作品、そして人間としての感情を前面に押し出す作品が生み出されていきました。グノーはその時代の中で、ベートーヴェンを過度に神格化せず、しかしハイドンモーツァルトの様式も評価したいと思って、この作品を書いたであろうことが、こう様式や構造を見てみると、滲み出てくるのです。

もっと言えば、ベートーヴェンが最後に書いた器楽のみの交響曲の流れを、自分が引きつぐんだという大志を抱いて作曲した、とも言えるのかもしれません。フランス革命後落ち着いたフランス社会の中で、ベートーヴェンは確実にフランス音楽界に受け入れられて行きました。コンセルヴァトワールもレパートリーにベートーヴェンを入れていく時代です。しかし、フランスには三楽章形式の交響曲の伝統があり、さらにバロック時代には音楽の先進地域であったという自負もあります。社会のそういった様々な気風に、グノーも影響されたことでしょう。

この二つの交響曲は、グノーが生きた時代を凝縮しつつ、グノーの思いが詰まっている作品であると、私は言いたいと思います。

さて、演奏はナクソスチョイスのオケなので端正ですが、ひとつ注目なのは、あえてなのかどうかわかりませんが、高音部を強く、低音部を弱くとは演奏しません。恐らく、グノーが作曲した時代の記譜から推測すれば、強弱記号がきちんと明記されているのしょう。必ずしも古典派の演奏様式にのっとっているわけではありません。それが前期ロマン派の作品らしいといえばそうでしょうけれど、古典派の演奏様式どおりに演奏したら、いったいどうなるのかという冒険をやってもよかったかな〜とは思います。グノーの交響曲自体はナクソスが初めて収録したわけはないですし、だからと言って音源がそれほど多いわけでもないわけで、一つ冒険をして世に問うということをしてもよかったかな、と思います。

まあ、ナクソスですから、そんな冒険をしないことはわかっているんですけどね。でも、グノーの背景を考えると、古典派らしい演奏をあえてしてみるというのも、面白いだろうと思うのです。もしかすると、グノーは私達がまだ知らない、何らかのシグナルを作品に埋め込んでいるかもしれませんから。

特に第2番は第1番よりも気品と気高さに満ちている作品であるだけに、むしろ古典的に演奏してみるということがあってもいいかな〜という気はします。なんだか、聴いていてメッセージがありそうでないような印象を受けるのですが、私には「ここにメッセージを埋め込んでいるんだけれど、気づいてよ!」と受け取った部分が、幾つかあったものですから。特にそう受け取ったのが、第2番第1楽章と第3楽章でした。

一体どんな「隠れキャラ」がいるのでしょう?それを明らかにしてくれる演奏が今後でてきてくれれば、嬉しいですね。そんな楽しみは与えてくれる演奏だと思います。




聴いているCD
シャルル・グノー作曲
交響曲第1番ニ長調
交響曲第2番変ホ長調
パトリック・ガロワ指揮
シンフォニアフィンランディア・ユヴァスキュラ
(Naxos 8.557463)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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