かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:デイヴィスが振る第九

今月のお買いもの、平成29年1月分をご紹介します。今回はディスクユニオン新宿クラシック館にて購入しました、サー・コリン・デイヴィスが振る「第九」です。

毎年、第九のCDを購入することが半ば行事と化しているのが年末から年始にかけての情況なのですが、そろそろ棚も少なくなってきたことなので、何でも買うということはやはり憚られるのです。

この一枚も、他の演奏とにらめっこして、厳選して買ってきたものです。

サー・コリン・デイヴィスと言えば、バイエルン国立歌劇場管とのコンビで端正で美しい演奏を数多くのこしており、このブログでもベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を取り上げたことがあります。

そのため、このディスクを選択したのですが、かなり個性的というか、いろんなものを詰め込もうとして、ディスクというメディアでは入りきらない記録となっていると言えます。

第1楽章から第3楽章までは、特段個性的なものはなく、デイヴィスらしく作品をオケに美しく演奏させていますが、第4楽章では少し苦労しているように思います。

デイヴィスと言えば、端正な演奏であるはずなのに、いつも私が問題にするvor Gott!の部分はvor一拍に対し、Gott!が何と3拍!なんという変態演奏ぶりでしょうか!

後の3拍を、なんと残響で補っているんですね。実はこの録音、オケはバイエルンではなく、シュターツカペレ・ドレスデンドレスデン国立歌劇場管弦楽団)なのです。

旧東独のオケは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管以外はキリスト教会で録音することが多く、この演奏も実はドレスデンのルカ教会で録音されたものです。全体的に残響まで記録するかのようになっており、ヴォリュームを少し上げないと演奏が聞き取れないくらいです。

如何にメディアにロケーションの情況をデータとして詰め込むか・・・・・全体としてはその編集方針で貫かれています。そのためにデイヴィスが変態演奏を選んだのか、この演奏だけは判断できないんですが、非常に興味深い演奏になっています。

それ以外はとても端正な演奏で、美しいと言えます。豊潤さも香ってくる素晴らしい演奏なのですが、ともすればさまざまなものを詰め込もうとしたあまり、例えばメッセージ性の前進力だったりとかに欠ける部分もあります。この点は好き好きでしょう。私としてはそれなら、前月に購入しました、マルケヴィッチ指揮ラムルー管のほうが好みだったりします。

だからと言って、では放出するんですかと問われれば、すぐにはしないと答えます。決して全く駄目なのではありません。こういった演奏こそ、何度も聴いて、幾度も耳を傾け、指揮者が作品を借りて聴衆につたえようとしているメッセージを受け取る努力が必要です。幾度もしてももう受け取れないと考えた時には放出も考えますが、現時点ではまだまだどこかに隠されたメッセージがあるはずだと思っています。

こういった演奏はしばらくたって、そう、10年くらい経ってから聴いたほうがいいこともあるんです。あの時はわからなかったけど、今聴くとここ共感するよなーということが必ずあります。私にとってはアシュケナージ指揮フィルハーモニア管のシベリウス交響曲第2番がそうだったのですから。30年かかりました。

マイ・コレクション:シベリウス 交響曲第2番他
http://yaplog.jp/yk6974/archive/361

この時、私はアシュケナージに問題があるのではないかと書きましたが、そうではなかったのです。私が愛国心国家主義と間違っていたのです。その上、後期ロマン派、特に国民楽派の延長線上で聴いていたからこそ、メッセージを受け取ることができなかったのです。

シベリウス交響曲第2番は確かに愛国的作品です。しかしながら国家主義的作品ではないですし、ましてや原理的に国家主義をあおるような、国民楽派の一部の作品とも一銭を画しています。国民楽派新古典主義音楽の中間に位置するような作品で、国民楽派的にも解釈できるし、新古典主義音楽で期に解釈することも可能な作品なのです。

シベリウスの第2番は4楽章形式ですが、第3楽章と第4楽章がつながっているため全部で3部に分かれている様にも見えます。そこにもし、シベリウスが「自由」というメッセージを含んでいたとすれば、単に愛国的作品ではないと言うことになります。当時フランスから発信されていた、新古典主義音楽にも沿った作品だとも言えるのです。とすれば、フィンランドの独立に影響を受けて作曲された第2番を、単に愛国的作品とだけ考えていいのか、そこには人権を蔑にする戦争に対するネガティヴな視点がありはしないか、ということも言えるわけです。

アシュケナージはまさに、「フィンランドの独立」という側面をよく勘案しての演奏だったとすれば、そこまで考えずに単に英雄的な音楽としてだけを期待したのは間違いですし、メッセージを受け取らなかったのは当然だと言えるのです。なんという傲慢さでしょう!

このデイヴィスの演奏にも、そういった私自身の傲慢さがどこかに反映されて聴いていないだろうかと、反芻するのです。オケはいつものバイエルンではなく旧東独のシュターツカペレ・ドレスデン。合唱団も付属のいわゆるオペラ合唱団。その合唱団に単に力強くだけではなく、豊潤さを重視し美しく演奏させているということは、作品とヨーロッパが経てきた歴史や、作品自身が持つ「スピリチュアリティ霊性)」を反映させてはないのかと考えます。多分、まだまだ私が霊性という点において、至らない部分があるのではないかと考えるのです。

だから、そのメッセージを受け取るためには、まだまだ人生を生きなければいけないのだろうと思います。その果てに、いつか理解するときがくるだろうと信じています。




聴いているCD
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
シャロン・スウィート(ソプラノ)
ヤドヴィガ・ラッペ(アルト)
ポール・フレイ(テノール
フランツ・グルントヘーバー(バス)
ドレスデン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ハンス=ディーター・プフリュガー)
サー・コリン・デイヴィス指揮
ドレスデン・シュターツカペルレ
(Philips PHCP20236)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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