かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:メンデルスゾーン 室内楽全集5

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、メンデルスゾーン室内楽全集を取り上げております。今回は第5集に収録の、弦楽四重奏曲第1番と第6番、そして弦楽四重奏のための4つの小品を取り上げます。

この第5集はその弦楽四重奏曲のうち、最初の第1番と最後の第6番が収録されていることが特徴です。この二つはそれぞれ独立した作品番号となっており、一組になっていないという事になります。

第1番は1829年の作曲ですが、実はまだ紹介はしていませんが第2番の方が早く作曲されており、実際にはこの第1番は第3番以降のメンデルスゾーンらしさが出る作品のきっかけとも言うべき作品となっています。

弦楽四重奏曲第1番 (メンデルスゾーン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA_(%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3)

ベートーヴェン的と言われるのですが、実際聴きますとそれほどではありません。すでにメンデルスゾーンらしさが存分に出ている作品であり、様々な演奏技法を取り入れている点で、ベートーヴェンに習いながらも脱却していることが明確になっていると言えます。

そして第6番。作曲は1847年と、第1番からは18年たっており、完全にメンデルスゾーンらしい気品を持っています。姉の死が作品に影響しているというのはその通りだと思います。というのは、カップリングの弦楽四重奏のための4つの小品作品81は、最終的には1847年に完成された作品ですが、その最後の「フーガ、ア・テンポ・オルディナリオ」は単調でなおかつ激しく、まるでメンデルスゾーンの哀しみが爆発したかのような作品なのです。

明るい作品が多いと言われるメンデルスゾーン。だからこそモーツァルト以来の天才とも言われたわけですが、だからこそ、モーツァルトがそうであったように、メンデルスゾーン神経症的な部分があったと想像できるのです。これら短調の作品を聴きますと、その深みや激しさに驚かされますが、それはメンデルスゾーンの内面が素直に出されている証拠であろうと思います。

神経症の症状の中に、ピエロというものがあります。仮面をかぶって明るく振舞おうとするものです。モーツァルトは典型的な人でしたが、メンデルスゾーンもそうであったように、短調作品を聴きますと思います。

メンデルスゾーンは改宗していますが、それは彼の家庭環境を想像させるに十分な材料です。そのことで家族の間でいさかいが起っていたりしていた可能性も否定できませんし、改宗がメンデルスゾーン本人の意思ではなかったとすれば、それもまた様々な心の問題を引き起こしていたことでしょう。その諸問題を手放すために必要だったのが、音楽とそれを愛する仲間だったわけです。その中に、姉がいたとすれば、メンデルスゾーンが語るこの言葉はしっくりきます。

「音楽のことを考えようとしても、まず心と頭に浮かんでくるのはこの上ない喪失感と虚無感なのです。」

弦楽四重奏曲第6番 (メンデルスゾーン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3)

何故なら、アルフレッド・アドラーが指摘した、神経症の発症機序の3つの内、すでに2つが喪失されている、大変な事態だったからです。

�@共同体感覚の喪失
�Aパートナーシップの喪失
�B仕事(役割)の喪失

音楽で絆が結ばれた姉は、仲間でもありました。その仲間を失うことによって、メンデルスゾーンは共同体感覚とパートナーシップの二つを同時に失ったのでした。そして、仕事(役割)の喪失寸前までいったのです。

これは大変な状況であり、下手すれば命にかかわる状況なのですが、結局姉の後を追うようにして、メンデルスゾーンは第6番が完成したその年の10月に、発作に倒れこの世を去るのです。

2つ失った時点で神経症を発症しますが、私は医者ではないので断言はできませんが、発作も神経症が一因で起こったものと言えるでしょう。作曲もメンデルスゾーンの命をつなぐまでは行かなかったのです。サロンもあり、様々な才能に恵まれ、仕事も多忙であったはずなのに、です。残念な結果です・・・・・

多彩すぎた結果が、メンデルスゾーンの死期を早めてしまったのかもしれません。その意味では、才能が溢れることが必ずしもいいとは限らないという典型だと思います。天才とは言われなかったベートーヴェンのほうが、長生きしていますが、それはもしかすると障害者であったからなのかもしれません・・・・・

特に弦楽四重奏曲には、メンデルスゾーンの内面が素直に表現されている気がしてなりません。第2番はまだ聴いていないので全部がそうだとは断言しませんが、ここまで聴いたうえでは、何と繊細で、其れゆえに弱さも抱えていた人だったろうと思います。

ですから、演奏するに置いては、近代的なアインザッツのつけ方だけでは表現しきれないような気がします。この音源はシャロン四重奏団と、また団体が変っていますが、それでもアプローチが他の団体とそれほど変わっていないことにビックリします。もっと個性を出してもいいように思うのですが、これらメンデルスゾーン弦楽四重奏曲は、個性を前面に押し出そうとすればするほど、メンデルスゾーンの個性とぶつかるのかもしれません。それは作品にそれだけのエネルギーが内包されていることを意味しましょう。

つまり、意外と演奏は難しいという事です。旋律が聴きやすいと言うだけであまり音楽史的に重要でないとして避けるのはどうなのかなあと思います。もしかするとメンデルスゾーンのこれら弦楽四重奏曲を演奏できなければ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲をブレイクスルーしてこれまでにない演奏を実現するなど、難しいのではないかとすら思います。

最後の作品81は、1827年に成立した作品だけはなく、死の年1847年に作曲された作品が混在していますが、それはもしかすると、メンデルスゾーンが人生最後において、振り返りのために作曲したものだったのかもしれません。フーガや変奏曲が置かれていることから、古典的な作品であることが見て取れますが、音楽はロマン派です。しかも、フーガには前述しましたが激しさすらあります。古典的な様式の中に、ロマン派的な自分の意思や気持ちがしっかりと込められている作品で、素晴らしいと思いますし、ゆえに演奏は難しかろうと思います。つまりこの手の作品は、「情熱と冷静の間」を取ることがかなり難しいからです。

そのバランスがいとも簡単に実現されているのはさすがですし、なおかつ作品が持つ人間臭さが、気品の中にきちんと表現されているのが素晴らしいです。作品が気品の中にドグマが見え隠れしているわけですからそれをきちんと表現してこそプロですが、絶妙です。こういった演奏こそ、本当に素晴らしいと思います。メンデルスゾーンが自分の病的な内面の激しさを音楽で表現することで手放そうとしている作品を、大指揮者のように演奏してしまうのはどうかと思うからです。その点を、シャロン四重奏団はしっかりと境界線を引き、私たちに気品と精神的な苦しさや激しさを伝えてくれているのです。




聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ作曲
弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12
弦楽四重奏曲第6番ヘ短調作品80
弦楽四重奏のための4つの小品 作品81(ウィキでは「変奏曲とスケルツォ」)
シャロン四重奏団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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