かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ブルックナー 交響曲第00番、第4番1878年第2稿

今月のお買いもの、平成26年12月に購入したものをご紹介しておりますが、今回はディスクユニオン新宿クラシック館にて購入しました、ブルックナー交響曲第00番と、第4番第4楽章の1878年第2稿を収録したナクソスのアルバムをご紹介します。

このアルバムは、ブルックナーが好きな人たちにとってはもう古いなあと思われるかもしれませんが、私が購入した理由はただ一つ。これで、ブルックナーの全集が完成するからでした。

以前からディスクユニオンや銀座山野楽器に行っては、ブルックナーの00番を探していたのものです。かつて横浜関内にあったプレミアムジークの店主とも、「00番はなかなかないですねえ」とこぼしながら会話をしたものです。

それがなんと、中古市場に、しかも00番だけがあるなんて・・・・・・全集じゃないと無理だと思っていたのに、何と与えられていることか!

00番がなかなかないのには、理由があります。正確には、この作品には番号が付されていないのです。

交響曲ヘ短調 (ブルックナー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E3%83%98%E7%9F%AD%E8%AA%BF_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

以前、知人から0番から9番までは譲り受けていますが、その時も00番はないとのことであきらめたのでした。だからこそ、00番を探していたわけですが、そもそも番号が付されていない作品なので、全集では殆ど収録されないのです。が、かといってでは単独ではあるのかと言えば、このナクソス以外はないと言ってもいい状態です。

つまり、録音がほとんどないという作品なのですが、それはこの作品が、番号がついているブルックナー交響曲と比べると、著しく違いがある、つまり限りなくその名の通り習作だと言えるからなのです。だから、なかなか取り上げられないのです。

確かに、ブルックナー終止などないですから、当然と言えるかもしれません。しかし、ブルックナーが作曲を始めた時代、どんな作風で、それはどんな作曲家に影響を受けた物だったのかという点で、この00番はとても意味がある作品なのです。

1863年という時代は、前期ロマン派の時代です。特に、シューマンが活躍した時代に近いという点もあり、シューマンメンデルスゾーン、或はさらにさかのぼってベートーヴェンと言った作曲家の影響を受けている作品であると言えるでしょう。霊感という点では確かに多少鈍いように思いますが、オーケストレーションが下手なわけでもないですし、その後の非凡なブルックナーが見え隠れするように思います。

そもそも、私は以前から申し上げていますが、ブルックナーという作曲家はモテットなど、宗教曲において非凡な才能を発揮した人でした。敬虔なカトリックであったが故、オルガニストでしたので、後の作品にはオルガニストとしての経験が反映されている、と。特に、ブルックナー終止に関しては、オルガニストとしての経験が色濃いのではとも言及したことがあったかと思います。この00番を出発点として、その後ブルックナーは第1番から先の、独自の世界を切り開いていったのだと考えれば、なぜ本人がこの作品を破棄せず、「宿題」としたのかが見えてくるように思うのです。

このアルバムの指揮者はティントナーですが、ウィキで「霊感なし」に疑義を述べているその人であるわけです。ですから、特にティントナーがいう第3楽章スケルツォは、生き生きとしています。きちんと演奏すればこれほど魅力ある作品なのだという事を、ティントナーは演奏で示してみせたと言えます。多分、ブルックナーが好きな人は、第1番以降の作品の特徴に思いれが強い人だと思います。それはそれで素晴らしいことなのでだめというわけではないんですが、それゆえに、この作品が持つ魅力が見えなくなってしまっている点は否めないだろうと思います。

私は、この00番と第1番以降は、分けて考える必要があるように思います。なぜ、多くの指揮者が00番を入れないのかを考える時、あまりにも指揮者よりに考えることによって、見えないものがあるように思うのです。勿論、私も元合唱団員ですから、演奏者の立場に立つことは否定しませんが、しかし、オケの団員と指揮者との上下関係で物事を考えると、この作品が放つ「光」を見ることが出来ないのだろうと思います。指揮者が判断したことは絶対である、としてしまって。

その「絶対視」が、この作品にとっては盲目になるような気がしてなりません。指揮者も一人の人間ですから、いろんな考えがあって当然であり、ティントナーのような視点を持つ指揮者を排除しかねないような気がします。私達聴き手はその演奏の指揮者とは対話をする関係であり、従わなくてはいけない関係ではありません。そこを誤ると、盲目になってしまうように思います。

カップリングは、第4番第4楽章の1878年第2稿です。ブルックナー交響曲には様々な版がありますが、ティントナーはここで第4番では最も演奏機会のないものに光を当て、私達聴衆にその判断をゆだねようとしています。

交響曲第4番 (ブルックナー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

確かに、リズムにおいて異なる部分が顕著で、初め聴きますと違和感があります。でも、ははーんなるほど〜と、ウィキなどを読みながら聴きますと、あれ、なんでこれが演奏機会が少ないのだろうと思ってしまいます。

確かに、歴史学上ではあまり支持できない版なのだろうということは理解できます。私も卒業学部は実証史学なので。しかし音楽の場合、その楽譜が真筆であれば、それは正しいものなのであり、あとは実際にそれを演奏上採用するかしないかの判断が演奏者にゆだねられるわけです。作曲家が「最終校訂でお願い!」と言っていれば別ですが、ブルックナーという作曲家はそれをなかなかしなかった人です。ある意味、バッハと同じ問題を抱えるわけです。あるいは、ヘンデルメサイアと同様とも言えるでしょうか。

だからこそ、いろんな版での演奏があってもいいわけですし、いろんなオケがもっとBCJの鈴木氏のように、指揮者によって異なる版を演奏することが望ましいのではないかと思います。確かに、国際ブルックナー協会との関連があるでしょうが・・・・・

ただ、今進められている校訂は、あくまでも一つの参考です。勿論それがきちんとした理由に基くものであることは、バッハやモーツァルトが好きな私は理解しています。しかし、鈴木氏がバッハにおいてつねにやっているように、ある校訂に対して、疑義を向けてやってみるということも、大事だと思います。或は、アバドベートーヴェンの第九において、新ベーレンライター原典版に対して、ベートーヴェンの和声の定量調査によって疑義をはさんだように。

ティントナーがここで言いたいことは何なのか。指揮者を絶対視せず、演奏を聴きながら対話し、考えて欲しい・・・・私はそのように受け取りましたが、皆さんはいかがでしょうか。




聴いているCD
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第00番ヘ短調WAB99
交響曲第4番変ホ長調第4楽章(1878年第2稿)
オルグ・ティントナー指揮
ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
(Naxos 8.554432)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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