かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 交響曲全集11

神奈川県立図書館所蔵CD、シリーズでバルシャイショスタコーヴィチ交響曲全集を取り上げてきましたが、今回はその最終回となります。第11集、第15番を取り上げます。

ふりかえれば、このブログで交響曲を10作以上取り上げるのって、モーツァルト以来です。9作だって大変な作業ですが、それを15作も作曲したショスタコーヴィチの情熱には、頭が下がる思いがします。

この第15番は1971年の作曲で、ショスタコーヴィチが亡くなる4年前の作曲です。

交響曲第15番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC15%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

楽章形式という点では、古典回帰となっていますが、様式的にはソナタ形式がないなど、それまでのショスタコーヴィチの作品の特徴をしっかりと持っている作品です。そしてそこに、私はこの作品が持つメッセージがあると思っています。

様々な作品からの引用、それはショスタコーヴィチ自身のものにとどまらず、他の作曲家の作品が含まれていることも重要です。第1楽章ではいきなりロッシーニウィリアム・テル序曲が引用されていますし、第4楽章では冒頭からワーグナーの「ニーベルングの指環」の運命動機がそのまま使われているなど、その引用はまるでバッハです。

その上で、20世紀音楽の、ショスタコーヴィチが作曲した当時の流行もしっかりと備わっています。もともと、どんな作品を書きたかったのかが、この作品から見え隠れします。

私は、晩年の2作である、第14番と第15番は、ショスタコーヴィチがそれまでの人生を振り返る「棚卸」の作品であると思っています。その要素が特に強く、前面に押し出されているのが、この第15番であると考えます。なぜなら、自分が作曲したかったのは伝統に立脚しつつも、アヴァンギャルドな音楽であるということが、第15番では明確に打ち出されているからです。

ショスタコーヴィチ自身の作品からの引用で印象的なのは、第7番「レニングラード」を第4楽章でパッサカリアの主題として使っている点です。そもそも、ウィリアム・テルが出てきたり、若き日の交響曲第1番や第2番などからの引用と、レニングラードや「ニーベルングの指環」からの引用は、ショスタコーヴィチの人生における「抑圧」と「死」を彷彿とさせる装置となっており、私にはショスタコーヴィチが自分の人生を振り返ったものとしか受け取ることが出来ないのです。

レニングラードを作曲した当時のショスタコーヴィチは、スターリン統治下で抑圧に身を縮めながら、戦争とそれによる飢えという、死と隣り合わせの生活を送っていたわけで、まさしくショスタコーヴィチが精神的におかしくなるほど苦しんできた人生の縮図であったと言えるでしょう。さらに言えば、社会主義の理想と現実に絶望を感じながら、それでも日々の生活を送り、創作に希望を見いだしていこうとするその人生の縮図でもあると言えるでしょう。

その上で、とても大切なメッセージは、最後にハイドンの「ロンドン」が引用されているという点だと思います。ロンドンはハイドンの最後の交響曲です。

交響曲第104番 (ハイドン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC104%E7%95%AA_%28%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3%29

つまり、この第15番は、私の最後の交響曲だよという意味もあるのではないかという推測を、私はしています。そのため、私はこの交響曲を「振り返りの棚卸作品」と呼ぶわけです。

さらに言えば、様々なメッセージが込められており、このエントリだけでは長くなり過ぎの感がありますので割愛しますが、例えばなぜワーグナーの、それも「ニーベルングの指環」から引用なのかという点も、この作品において重要だと思います。巨人族の栄光と没落は、通常人類史への皮肉だと言われますが、それをソ連という国や社会に置き換えたと考えることも可能だからです。

兎に角、この作品は様々考えさせるものが多く、端的に言えるものなど一つもないと言えるでしょう。唯一が、振り返りであるということだと思います。それ以外は、様々な要素が複雑に絡み合っており、だからこそ上手なオケでないとそのメッセージは伝わりにくいという点があるでしょう。

バルシャイは、とにかく淡々とオケを鳴らします。印象的な打楽器群も、淡々としていてだからこそ、まるでサイレンのような役割を果たしており、だからこそ、第4楽章で「え?なんでここでニーベルング?」と思わせますし、しかし作品の中で違和感はないのです。打楽器がまるで「はい、つぎ」というような役割を果たしており、そこはしっかりと演奏させています。ふりかえりの作品でありながら、クライマックスなどはほとんどなく、となると端正に演奏するのが一番いいわけですが、それは絶品に仕上がっています。

放送局のオケということで、上手なのは当然であると言えますが、その上手さを十分に引きだしたうえで、さらに進化させているような気すらします。よくN響はつまらないと言われますが、私から言わせれば放送局オケだからこそ、ショスタコーヴィチくらい演奏してみたらと思います(まあ、今の経営委員では無理だと思いますが・・・・・でも、N響だからこそ可能であると思うんですけどね)。ショスタコーヴィチが演奏できれば、第九などでフィードバックできるものはたくさんあるように思うのですが・・・・・・

ヨーロッパのオケは、こういった20世紀の作品を数多く演奏しているがゆえに、第九の演奏においても、様々な実験が繰り返され、それが感動的な演奏につながったり、或は他の作品へも応用されたりすることで、私達日本人がCDで「やっぱりいい演奏だよね、それに比べて日本は・・・・・」という現状につながっているのだと思います。しかし、私からすればN響は決して下手なオケではありません。ただ、演奏しているものが偏りすぎていて、それ故成長できていないことが問題だと思っています。バルシャイのこの全集は、ショスタコーヴィチという20世紀最大のシンフォニストの作品を演奏することはどういうことなのかを、明確に突きつけているように思います。

20世紀という時代がどんなものであり、そのために必要な素養はどんなものがあるのか・・・・・19世紀の作品とはちょっと違う、「人間の繊細な心と魂」への共感と知識、そしてまるで臨床心理士のような「眼」が必要であることを、バルシャイは教えてくれました。今後、日本でも「魂の病」が増えていきそうな現状で、オーケストラはどんな作品を演奏して行けばよいのか・・・・・とても考えさせられる全集であったと思います。




聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第15番イ長調作品141
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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