かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:オーケストラHAL第8回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感を久しぶりにお届けします。今回は、平成26年9月14日にティアラこうとうでおこなわました、オーケストラHAL第8回定期演奏会を取り上げます。

オーケストラHAL。なんか面白い名前だなって思われるかもしれませんが、最近こんな名前のアマチュアオケが増えています。で、当然ですがこのオケもアマオケであるわけです。

公式サイト
http://hal.mu/

江東区を中心にしているアマチュアオケですが、宮前フィルのような地元密着というオケではありません。その意味では、泥臭さというものはないんですが、それ故、レヴェルがとても高いオケだと思います。、「対話を重ねながら紡ぐ音楽(Harmony Achieved thorough Language)」というコンセプトは、とてもいいなと思います。今回の演奏会でも、それは充分に発揮されていたように思います。

今回の曲目は以下の通りです。

�@シベリウス 交響曲第3番ハ長調作品52
�Aシューベルト 交響曲第8番ハ長調D.944(新全集に基く番号なので、第8番です。古いのでは第9番になります)「ザ・グレート」

さて皆さんに問題です。この二つの交響曲に共通するものは何でしょう。よーくみると、わかりますよ。

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はい!わかりましたか?

答えは・・・・・「主調がともにハ長調であること」。

え、そんな答えでいいの?という方もいらっしゃると思いますが、まさしく今回のコンサートは、それがテーマだったのです。名付けて、「偉大なるハ長調」。

そのテーマに共感して、同じ日にナデージダがあるにも関わらず、此方を取った私でした・・・・・

なぜなら、以前、モーツァルトの宗教曲を取り上げた時、常にハ長調を「聖なる調」と言っていたのを、思い出していただいたでしょうか。記号が何もついていない調性は、それだけでメッセージでもあるのです。特に、ミサ曲に置いては大規模で重要な作品で使われることが多い、と。

この二つの作品も、背景を見てみると、なるほどハ長調であるという作品であるわけです。

まず、シベリウスの第3番。以前、私が挙げたエントリをご紹介しておきましょう。

神奈川県立図書館所蔵CD:シベリウス 交響曲第3番・第5番
http://yaplog.jp/yk6974/archive/914

第3番は第2番の戦闘的な作品からは一転して、偏狭なナショナリズムを否定するかのように、自然なナショナリズムに溢れた、まるで抒情詩です。それはおそらく、彼自身が体験した、国家の独立への道と、病気からの回復が大きく影響しているように思いますが、ここではそれを呈示するにとどめたいと思います。ハ長調という「聖なる調」を使っているのは、一つには祖国の独立、そして二つには自分自身がむしばまれていた「アルコール」というものの囚われから自由になった、という事があるのだと思います。それを、神に感謝するという意味合いがあるでしょう。

その証拠に、この作品は三楽章制を取っています。実際には4楽章とも取れる作品ですが、それをなぜあえて3楽章としたのか?を考える時、ハ長調という調性を選択したということから、やはり「自由」という二文字が受け取れるからです。

第3楽章は、希望に満ちた楽章です。最初暗めの旋律から入りますし、途中転調で何回も短調になりますが、その都度長調へと回帰するその様子は、「解放」とか「自由」といった言葉が適切なくらいです。

その上で、このブログでは何度か指摘していますが、3楽章制というのはフランス音楽の交響曲の特徴です。多感様式の時代や、それ以降に書かれたフランスの作曲家の交響曲は、サン=サーンスをのぞいてほとんどが3楽章制を取っています。代表例で、私のエントリからオネゲルを挙げておきましょう。

神奈川県立図書館所蔵CD:オネゲル 交響曲全集1
http://yaplog.jp/yk6974/archive/1031

それと同じ楽章数を採用するということは、とりもなおさず、フランス革命を想像させます。フランスの伝統を採用するということで、フランスという国を印象づけるからです。単に当時新古典主義音楽が流行だったからという理由では説明できません。なぜならば、第2番までは4楽章だからです。その上、この作品も4楽章的な側面がありながら、3楽章になっています。ですから単に新古典主義音楽が流行だったからという理由では、説明つかないのです。

三楽章制とハ長調・・・・・・この二つが、シベリウス交響曲第3番の、重要なキーワードだったんだと、あらためて教えて下さったハルオケ(と略させていただきます。以下同じです)の皆さまに、感謝の言葉を捧げます。ありがとうございます。

次のシューベルトですが、標題が「ザ・グレート」です。実はその標題が付いた理由は、大きい方のハ長調交響曲という意味なのですが・・・・・

交響曲第8番 (シューベルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88)

以前、これも私はエントリを立てています。

今月のお買いもの:シューベルト交響曲全集4
http://yaplog.jp/yk6974/archive/942

この時に上げた全集が、ハ長調カップリングをしているということに、今更ながら感心します。それはまさに、今回、ハルオケが掲げたテーマそのものであるからです。ここでもう一度考えます。なぜ、シューベルトハ長調交響曲を二つのこしたのか?

ハルオケの解説文が、私に一つのヒントを与えてくれました。この作品はシューベルト最後の完成された交響曲です。しかし、その初演の指揮を振ったのは、このブログでも前期ロマン派の新しき音楽というときに顔を出す、メンデルスゾーンであり、オケはライプツィヒ・ゲヴァントハウスです。そして、その初演に資力したのは、シューマンです。

つまり、シューベルトは生きていないんです。死後、その芸術に気が付いた、前期ロマン派を代表する二人の芸術家によって、日の目を見た作品です。こういった作品がシューベルトの作品は数多く(というより、ほとんど)、以前ミサ曲第6番を取り上げた時にも触れています。

マイ・コレクション:シューベルト ミサ曲第6番
http://yaplog.jp/yk6974/archive/472

そんな不遇の時期に作曲されているにもかかわらず、ハ長調という聖なる調を使っている理由・・・・・しかも、第4番に続いて、です。考えられるのはまさしく、彼はそもそも宗教音楽と関わりが深かった、という点です。

さいころ聖歌隊に入っていた人であり、さらに6つのミサ曲及びいくつもの宗教曲。シューベルトと教会との関係を、私達につたえる史実です。ミサ曲第6番は、彼が教会への就職を考えた作曲したという側面があることなどを考えれば、二つのハ長調交響曲は、彼にとっての宗教曲とも言える作品であるのかもしれません。

勿論、旋律はそれほど宗教曲らしいものではありませんが、明るくかつのびやかで、美しさと力強さが全曲に貫かれている第8番(第9番)は、暗いさ中に差し込む一筋の光のようです。

シューベルトはかなり仲間とはざっくばらんな話をしたようで、それこそ下ネタまであったようです。そんな人柄のシューベルトは、常に明るさというものを失わなかった人であった、というのが、キーワードのように思います。だからこそ、ミサ曲でも使うような調性を、交響曲でも使ったのである、と。

第1楽章主題展開部における転調では、神々しさすらあります。そこにシューベルトの宗教観、あるいは人生観が見て取れるのは私だけなのでしょうか。

実際、シューベルトは病に倒れたのですが、そんな中で希望を捨てない彼の姿勢が、二つのハ長調交響曲に結実している・・・・・それはおそらく、ベートーヴェンの姿勢と、モーツァルトのミサ曲群がシューベルトのあたまの中に合ったからかも知れません。実際、シューベルトベートーヴェンだけでなく明らかにモーツァルトの影響を受けている人です。

そんなことを、ハルオケの人たちが思っていたかはわかりません。ただ、彼らが「偉大なハ長調」にリスペクトしていたことは間違いありません。演奏はまず、シベリウスのあの短調長調がくるくる入れ替わる作品で、なんらアンサンブルが崩壊していないのに感心です。設立4年目なんて、うそでしょ?というほどです。宮前フィルの4年目って、もっと下手だったよなあ(宮前フィルの関係者の方々、申し訳ありません。ただ、「史実」なもので・・・・・)と。

まあ、実は今回開始時間に遅れ、シベリウスはロビーで聴いていた範囲でなんですけど、それでも、スピーカーから流れてくる崩れないアンサンブルに、私は素直に感動しました。感心ではなく、あっという間にそれを通り越し、感動していました。

このオケ、只者ではない・・・・・瞬時にそう判断しました。最後の第3楽章でも、まるで病と回復が交互にくるかのような転調の連続でも、崩れませんし、金管も裏返らず、遅れることもなく美しく鳴っているのにも感動です。

恐らく、ホール中に入れば間違いなく、客席で起こったのと同じように、ブラヴィ―と拍手をしていたことでしょう。

続くシューベルトでもそれは同じで、特に第1楽章は金管から始まりますが、あれは相当難しいと思います。シューベルトは歌曲王というイメージが日本では強いせいか、交響曲の評価が低いことが多いのですが、ザ・グレートはかなり演奏が難しい作品であると思います。その理由が作品が金管で始まるという点なのです。

これは私が合唱団出身だから故の視点かもしれませんが、金管が鳴るには、歌うのと同様まず吸わなければいけないからです。つまり、タクトが振り下ろされる打点までに、息を吸い、吐き、それを音にしなくてはならないからです。しかもそれが前奏なしに、です。歌うときに一番アンサンブルを合わせにくいのが前奏なしに始まる作品なのです。管楽器もまったく同じです。それが、完璧だったのです・・・・・

これに感動しなくて、いったいどこに感動するのでしょう?そんなの当たり前だよって言う方もいらっしゃると思います。確かにそうです。しかし、それは演奏経験のあるなしの差なのです。演奏経験があると、そうはいってもあそこは難しいよというポイントがあるんです。シューベルト交響曲第8番「ザ・グレート」においてはまさにその出だしなのです。

その後の、美しい作品を当たり前に「アマチュア」が美しく演奏する姿・・・・・最後、ブラヴォウ!が飛ぶのはあたりまえだと思います。ただ、それだけのオケであれば私はもう少しだけ余韻を楽しみたかったですが・・・・・

それだけ、聴衆に感動を与えた演奏だったのだと思います。それは私も同感です。シベリウスシューベルトも、決して勇壮で勝利の音楽的な、例えばベートーヴェンの「運命」のような感動する場面がある訳ではありません。しかし、シューベルトの8番における第4楽章のように、力強いメッセージもしっかりとある作品を、まさしく力強く、かつ美しく、しなやかに演奏したことは、素直に感動できることですし、私としては驚きをもってメッセージを受け取りました。

オケの団員の方はまさしく、言葉通りに対話を重ねながら音楽をつむいでいるんだなあと思いました。団員同士でもありますが、作曲者とも・・・・・とてもスピリチュアルな生活を、オケと関わることでしているな、と。指揮者の方もそんな人生を歩んでいらっしゃるようですし、それがオケと共に演奏に反映されているんだなあと思いました。とてもうらやましいですし、おすそ分けをもっといただきたいなという気持ちになりました。

つまり、今後も機会があれば、是非とも聴きに行きたいと思います。今度はどんなものが与えられ、分かち合えるのか、とても楽しみです。




聴きに行ったコンサート
オーケストラHAL第8回定期演奏会
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第3番ハ長調作品52
フランツ・シューベルト作曲
交響曲第8番ハ長調D.944「ザ・グレート」(プログラム表記による。旧表記では第9番)
アンコール
ジャン・シベリウス作曲
ニンフの踊り
石毛保彦指揮
オーケストラHAL

平成26(2014)年9月14日、東京江東、ティアラこうとう大ホール

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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