かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ブロムシュテットが振るシベリウス交響曲全集4

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げている、小金井市立図書館のライブラリである、シベリウス交響曲全集、今回は最後の第4集をとりあげます。

第4集には、第4番と第5番が収録されています。録音時間の都合上、どうしても番号順とはいかなかったこの全集ですが、それでもこの第4番と第5番が最後に来ていることで、気が付かされることはたくさんあります。

その一つが、シベリウスにとっての交響曲とは、一体何だったのだろう?と考えるきっかけになったことです。第4番は古典的な4楽章形式ですし、第5番は4楽章形式なら第1楽章と第2楽章が一つの楽章になっているということで後年のシベリウス作品の特徴をはっきりと示しているものです。が・・・・・

ja.wikipedia.org

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なぜ、シベリウスは第5番において、4楽章形式なら第1楽章と第2楽章を一つの楽章にするとしたのだろうか?と私は考えるわけなのです。ウィキには祝祭感とありますが、確かに第4楽章にはそんな雰囲気もあります。ですが、演奏を聴く限り、第1楽章に祝祭感はあまりありません。むしろ暗い感じです。

まあ、第4番よりは明るいですけれど・・・・・・シベリウスって、北欧のさわやかなとか言いますけれど、交響曲に関してはむしろ自分の感情だったり、心象だったりをストレートにぶつけている感じが私にはします。ブロムシュテットもその解釈なのではないか?と思っています。不安定な要素満載の第4番、そして自分の50歳を記念する作品ではあるが、戦争の影がちらつく中でこれも不安定な要素が強い第5番。どれも一筋縄ではありません。

その「一筋縄」ではないんだという、シベリウスの心情を、十分救い上げているのがこの演奏だと思うのです。となれば、私たち聴衆のほうも、単純化しないほうがいいだろうと思うんです。

第5番の構造に話を戻せば、3楽章という点にこそ、むしろシベリウスが込めたメッセージが隠されていると言えましょう。つまりは「自由」。独立して他国の支配から自由になったフィンランド。しかし、政情不安定で必ずしも落ち着いて創作活動ができないときの作品である第4番は古典的な4楽章でまとめていますが、戦争の影がちらつき、祖国の独立すら危ぶまれる状況で作曲された、自分の50歳を祝う作品である第5番は、その自由が奪われるかもしれないというメッセージを込めているように私には取れるのです。

生きのいい演奏を生み出すブロムシュテットのタクト。ここではその生きのよさというのは影を潜めます。むしろ不安要素を前面に出し、リズム感もこれまでの作品に比べれば無くなっています。つまりは、そういう生き生きとしたものが失われている作品である、とブロムシュテットが解釈して、オケを鳴らしていると考えれば、つじつまが合います。なるほどなあ、と。

確かに、生き生きとしたものを要求するには酷な作品が並んでいます。となれば、これは意図して最後にこの二つが来ていると判断したほうがよさそうです。シベリウス交響曲とは何ぞや?と聴き手に問いかける・・・・・これもまた、ひとつのシベリウス作品の呈示の仕方だと思います。こういう仕事こそ、プロだよなあと思います。とても満足が行く全集だったと思います。

また、音質もいいんです、この全集。ソニーのMusic Center for PCでDSEE HXをきかせて聴きますと、本当に臨場感たっぷり。確かこれは元音源デッカだったと思いますが、昨日の小澤/水戸室と一緒!それを考えると、デッカって本当にすごいレーベルだよなあ、と思います。そりゃあ、フィリップスは売りますよ、ええ・・・・・フィリップスがないのは残念ですけどね。でも、この全集と、そして昨日の小澤/水戸室を聴いてみれば、その技術力の高さは比肩するのはドイツ・グラモフォンくらいですよ、やっぱり。そりゃあ、フィリップスはもたないです、グローバル化の波の中では・・・・・

 


聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第4番イ短調作品63
交響曲第5番変ホ長調作品82
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
サンフランシスコ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。