かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:シューマン ピアノ作品全集2

今月のお買いもの、シューマンのピアノ作品全集を取り上げていますが、今回はその第2回目となります。収録されているのは、作品9、作品124、WoO4、そして作品18です。

ウィキ等で各々を調べてみると、この編集も味わい深いものがあるなあと思います。この4つは作品124をのぞいて初期の作品です(いや、作品124は寄せ集めの作品なので、その中には初期の作品もあります)。しかし、この第2集の特色は実はそれではないのです。

むしろ、音楽の性質が似ているものが集められていると思います。第1集の時にも述べましたが、こういった番号順では無かったりする全集は、時系列ではない編集方針があることが普通です。となると、音楽の性質でまとめているというのが、一番考えられるものです。

まず、作品9「謝肉祭」は謝肉祭の情景を表現した作品ではなく、音符で謝肉祭のようなはじけた様子を作ってみましたというものです。

謝肉祭 (シューマン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9D%E8%82%89%E7%A5%AD_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3)

つまり、ここでいう謝肉祭とは想像上のものであり、実際の謝肉祭に取材したわけではないのです。特に「ダヴィッド同盟」に出てくる人物が題名についているということを考えますと、この謝肉祭とは、むしろ当時の新しい音楽を比喩したものとも受け取れます。

最後の曲にダヴィッド同盟の言葉があるように、想像上の(あるいは形而上と難しい表現をしてもいいのかも知れません)謝肉祭であることは間違いないでしょう。

この作品9はその意味では統一感がありますが、それでも音楽は様々に変化していきます。それはまさしく、次の作品124でも同一だと言えましょう。「アルバムの綴り」は幾つかの作品集から漏れたりしたものを再構成したものです。そのため中長い作曲期間となっており、統一感もありません。それゆえに音楽が次々に変化していくのは作品9相当であると言えるでしょう。

WoO4「7つのフーガとヒンメルの『アレクシスに』によるカノン 変イ長調」はどちらかと言えば中期の作品と言えますが、7つのフーガが作品を織りなしていますし、最期の作品18「アラベスク」は文字通り、音楽によるモザイク模様のように音型が織りなしていて、幻想的な世界を私たちに見せてくれています。

こう各々の作品に注目してみると、この第2集は最後の「アラベスク」のような、様々な音が織りなされている作品が集められていると言えるかと思います。それがシューマンのピアノ作品の特徴だとは言いませんが、シューマンの「標題音楽への希求」という側面を、よく表している作品たちだと思います。

同時代の作曲家達は、絶対音楽にさらにロマンティシズムを加えて行ったり、或はさらに一歩進めて幻想的な作品を生み出していく過程で「標題音楽」に辿りついたりしていますが、それぞれ後期ロマン派で数々の代表的作品が生み出されることとなる、そのきっかけとなっているように思います。シューマンのこれらの作品は、まさしくそのきっかけというにふさわしい特徴を持っています。

第2集ではその「モザイク模様」が編集方針になっていると、私は解釈しています。だからこそ、最後に「アラベスク」が入っていると思うのです。アラベスクとはそもそも、イスラムのモスクで使われる模様で、二つ以上のモティーフが絡み合うデザインを言いますが、それを音楽で表現したのがアラベスクであると言えましょう。でも、フーガではありません。それが「新しい音楽」であったと言えます。音楽的にはイスラムのかけらも見出すことはできませんが、構造がモザイク模様であるわけです。

バッハがカンタータでもやったことを、シューマンは観念として表現したとも言えます。それは明らかに標題音楽全盛の時代を切り開くものでした。20世紀音楽が辿りついた一つの地平を用意したのがシューマンであったと言っても、過言ではないでしょう。

つまり、シューマンも伝統を受け継いだ一人でしたが、単に受け継ぐのではなく全く新しい形にリビルドしたと言えましょう。よくよく見れば伝統に即した面もあるが、それはよーくいろんなものを見てみないと分からないようになっていて、見た目ではわからず、むしろ感情や観念と言ったものが前面に押し出されていると言えます。

まだここまでは病的ではなく、むしろ健康的な音楽が流れていると言えます。シューマンは同時代のショパンの才能をほめちぎりましたが、ショパンはそれに苦笑し、批判の弁を述べたと伝えられますが、そのことからしシューマンの「病気」がある程度見え隠れします。むしろ病的なものはそこにこそあるだろうと指摘したいと思います。

デニスの演奏は、リットを上手に使って作品が持つ様々な表情を気品をもって表現しています。むしろそれはとても自然であり、モーツァルトとは明らかに時代が異なることを、明確にしてしています。単にリタルダンドをかけているだけだろうと思うかも知れませんが、モーツァルトの「リットなし」とシューマンの「リットありあり」とでは、表情が全く異なります。しかしそれぞれ気品や爽快さ、平明さなどを持ち、どちらも音楽として私たちの心に明りを灯すものであることを、認識させてくれます。



聴いているCD
ロベルト・シューマン作曲
謝肉祭 作品9
アルバムの綴り 作品124
7つのフーガとヒンメルの『アレクシスに』によるカノン 変イ長調 WoO4
アラベスク 作品18
ヨルグ・デニス(ピアノ)
(Arioso ARI107-2)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村