今月のお買いもの、8月に購入したものを取り上げています。今回はラヴェルのピアノ作品全集の1枚目を取り上げます。ミケランジェロ・カルボナーラ(食べ物ではありませんので!)のピアノ、ブリリアント・クラシックスから出ているCDで、2枚組です。銀座山野楽器にて1260円也。
や、安すぎる・・・・・まあ、ブリリアントであれば当たり前の値段ではあるんですが・・・・・にしても、ブリリアントであるというのは、嬉しいことです。これぞ印象派!であるラヴェルのピアノ作品全曲が、1260円で手に入り、聴くことができるわけなんですから。
さて、ラヴェルと言いますと、音の魔術師とも呼ばれ、ボレロが特に有名であることから、管弦楽曲を数多くのこしているという印象が強いかと思いますが、実はピアノ作品でも歴史上重要な作品を残しています。特に、ドビュッシーからフォーレ、そしてプーランクと至るフランスのピアノ作品の歴史の中で、ラヴェルは実に重要な位置を占めています。
え、単なる中継ぎなんじゃないの?と思われるかもしれません。しかし、完全なフランス印象派というのは、上であげた作曲家の中では、フォーレとラヴェルの2人なのです。フォーレがその宣言をし、ラヴェルが推し進めたのが、フランス印象派です。
モーリス・ラヴェル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB
このウィキの説明で要注意なのは、ドビュッシーを「印象派」として扱っている点です。それは本当に正しいのでしょうか。丁度、東京ではブリジストン美術館でドビュッシーを取り上げていますが、それも決して印象派というくくりではないと記憶しています(一度見てこようと思っています)。音楽史的には、印象派とはフォーレ以降を指します。それでも、私も同じ意見ですが、ウィキのこの記述は正しいと思います。
「ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画していた。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には実際に対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。」
というよりも、ドビュッシーが一線を画していたというべきだと思います。そして、ドビュッシーはさらに古典的な意識が強かった人です。これを理解するには、当時の社会芸術を総合的に俯瞰しないと難しいと思います。ジャポニズムが入って来たことも含め、時代はフォルクローレへと舵を切っていた時代です。政治的には民族自決が唱えられるようになり、民族とは、さらに進んで民俗音楽とはなにかということを問いかけていた時代で、だからこそ、ウィキのこの記述になるわけなのです。
「ラヴェル自身はモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はエマニュエル・シャブリエ、エリック・サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。更に先述のようにスペイン音楽、ジャズに加え、アジアの音楽及びフォークソング(俗謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。」
そして、けっしてドビュッシーの音楽を否定していないという点も、以下の文章に現われているわけです。
「ラヴェルは、また、リヒャルト・ワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることをより好んだ。」
これは実はドビュッシーも一緒なのです。ただ、音楽的にはアプローチが若干異なるのです。私は私見としては、ドビュッシーはむしろブラームスに影響を受け、新古典主義音楽の扉を開いた人ではなかったかと思います。いや、この時代、誰でもそう思っていたのではないでしょうか。そのきっかけを与えたのは、ブラームスとワーグナーという二人のドイツ人であったのは間違いありません。
ラヴェルはそういった歴史の上に立つ作曲家です。一言に印象派と言っても、印象派とはという定義づけがしっかりしていないと、私たちは音楽が語る本質を見誤るような気がしてなりません。
この全集はラヴェルのピアノ曲が年代順に収められています。それを聴きますと、象徴主義、つまり何かをレトリックとして使う(つまり、それはすでにバッハなどのバロックの伝統をうけつぐものですが)というのではなく、旋律的にまねることで、インスピレーションを最大限表現するというものになっています。それが、印象派と象徴主義との違いです。ドビュッシーには下手すればどぎついものも存在しますが、ラヴェルにはほとんどそれが見出すことができません。第1曲目の「グロテスクなセレナーデ」くらいでしょうか。それも、何かグロテスクなものを象徴しているのではなく、音楽そのものがグロテスクであるからそう名付けられただけで、直筆譜には単に「セレナーデ」とだけ書かれています。
象徴主義であるドビュッシーと、印象派であるラヴェルとを聴き比べるという作業は、是非とも必要であると私は思います。どこかどう違うのかを聞き分けることができれば、それは絵画などの他の芸術への理解にもつながる、重要な作業であると思います。さらに、そうした作業は、日々の仕事にも応用できる、自己研鑽の場でもあるのです。仕事でわずかな違いが意外と大きな違いであり、大問題につながるということはよくあることだと思いますが、その問題意識を持つために、私は象徴主義と印象派とはどう異なるのかを理解することは、とても重要であると思います。
もしかすると、こういったCDを聴いて、問題意識を持つことが、現在の日本の状況を打破することに繋がるのであれば、そろそろドイツもののみの礼讃は国益に反する行為であると断罪してもいいような気がします。
それをカルボナーラ(もう一度言いますが、けっして食べ物ではありません!)は、淡々と演奏することで私たちに切々と訴えてきます。それが構成する美。感動するというより、美しいものに浸っている幸せ。それも人間の感情ですよねと、私たちに突きつけてきます。しかし、ラヴェルの音楽は何かを象徴しているわけではない・・・・・幻想的なものをそのまま表現し、私たちはそれをただ美しいと冷静に受け止める・・・・・それも、美として素晴らしいものですね、と。
なるほど!印象派とは、そういった「静かな美意識」であったか!
そう私に思わせる演奏なのです。
聴いているCD
モーリス・ラヴェル作曲
グロテスクなセレナード
古風なメヌエット
亡き王女のためのパヴァーヌ
水の戯れ
ソナチネ
ピアノのためのメヌエット
鏡
道化師の朝の歌
鐘の谷
ミケランジェロ・カルボナーラ(ピアノ)
(Brilliant Classics 94083)
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