かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:バッハ 結婚カンタータとコーヒーカンタータ

今月のお買いもの、ようやく7月に購入したものをご紹介することができます。まずは、毎度おなじみのBCJのアルバムから参りましょう。今回の収録曲は、世俗カンタータでも有名な結婚カンタータとコーヒーカンタータの2曲です。

このアルバムは再販なんですが、私はBCJのアルバムを買い追いかけるように決めた時に、教会カンタータが終わった時に、世俗カンタータを買うと決めていました。それを実行したことになります。

いや、正確にはまだ終わってはいませんが、ようやくゴールが見えてきたこのタイミングで、BCJで出ている世俗カンタータは全部買おうと決めたのです。廃盤になることだってあり得ますから。

さて、まずカンタータとはどういうものかを復習しておきましょう。

カンタータ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BF

このウィキの説明で大切なのが、「単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品」という部分です。その内教会で歌われる用途のものを「教会カンタータ」といい、それ以外を「世俗カンタータ」と「バッハの」作品では区分けをします。

そう、教会カンタータとか世俗カンタータといういい方は、基本的にバッハの作品において使用するものなのです。

教会カンタータ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BF

(ウィキのこの説明は素晴らしい!なぜ、ケーテン時代に世俗曲が多いかの端的な説明がなされています。それに、史実を見る限り、確かに「カントル」としてはケーテンにおいては教会カンタータを作曲していません。)

その世俗カンタータですが、主に1回きりの用途が多いのが特徴で、この2曲も用途としては1回きりとされています。ただし、コーヒーカンタータに関しては果たして、1回きりだったのでしょうか・・・・・・

まず、「結婚カンタータ」ですが、結婚カンタータと言われるものは3つ存在しますが、その中でも有名な第210番を普通「結婚カンタータ」と呼ばれます。1738年から41年にかけて初演されたといわれますが、その大元はどうやらもっと古い、バッハがトーマスカントルに就任したころ、或いはそれ以前の時期に作曲されたものが元になっているといわれます(BWV210a)。内容としては、依頼主の結婚を祝い、さらに依頼主の音楽への造形をたたえ、その上で音楽を庇護する姿勢を讃えているというものです。

このレトリックは本当に深く、単なる祝い事という視点から見ますとその重要性を見落とします。教会カンタータでも出て来るような深さを持っています。音楽は素晴らしいもの、結婚を祝うのにも最適である、だから、依頼主様、私の音楽もどうぞよしなに・・・・・という訳なのです。

いやあ、これは依頼主であったであろう結婚式を挙げた人たちは苦笑したでしょうねえ。そこまで言われれば、やらないわけにはいかないでしょうよ、ヨハン・セバスティアン!と。

バロック期の作曲家は、自立していないとはよく言われますが、この言い方は少し正確性を欠くと私は思っています。サラリーマンだったのだと考えるほうが私たちとしては理解しやすい側面があるように思います。ベートーヴェンが目指したのはサラリーマンとしてではなく、個人事業主としての芸術家だったからです。バッハの時代においては、芸術家はサラリーマンなのです。実際、バッハはライプツィヒのトーマス教会の音楽監督という肩書です。それなくして、多くの教会カンタータは成立しませんでしたし、また世俗カンタータの依頼もなかったのです。

だからこそ、自分の主張もおのずからはっきりしたものではなく、オブラートに包んだようなものになるのは当然で、その点が作曲家が個人事業主と認識される現代ではあまり理解されず、キリスト教徒だけに人気があるという状況になってしまっている一つの理由だと私は考えています。

では、コーヒーカンタータではどうでしょう?コーヒーカンタータとは、第211番「おしゃべりはやめて、お静かに」BWV211を指しますが、これはオペラと言ってもいいようなテクストを持ちます。1734年頃に初演されたとされるこの曲は、今度はかなりはっきりとした主張を持っています。しかし、たとえばデモのように「〜すべきだ!」というものではないのも事実で、ここでもあくまでも主張はソフトです。

しかし、読者の方は首をかしげるでしょう。なぜコーヒーで「主張」とか出て来るのか、と。それには、ヨーロッパに於けるコーヒーの受容史と当時のドイツ、特にライプツィヒの状況を紐解かなくてはなりません。

●バッハの世俗カンタータ
● コーヒー・カンタータ、 BWV.211 《おしゃべりはやめて、お静かに》
http://www2.wbs.ne.jp/~ryuzoji/Musik/Opera/CoffeeCantata.html

このサイトが端的に書いてくれています。大抵、どの国でも物珍しいものには税金をかけることが多く、それは日本も同じ時期には行われています(それをなくそうという運動が、「楽市楽座」です)。当時のライプツィヒに於いてはそのうちの一つがコーヒーだったわけです。なぜなら、国内産業を守るためです。まあ、現代でいえば関税と同じように考えてもいいでしょう。ですから当局は、何度も規制をかけようとします。ところが、バッハが生きた時代にはすでにコーヒーは市民権を得つつあり、その高らかな主張が「コーヒーカンタータ」なのです。

内容としては、コーヒー好きの少女とその父との対立と結婚騒動を描いたものですが、それをレトリックとして、父親をコーヒーを批判する「旧弊」、娘をコーヒー好きの進歩主義と位置付けて、コーヒーを批判する人たちを笑い飛ばす(いや、「ぶった切る」という表現の方がこの作品では相応しいかもしれません!)作品に仕上げています。そう、ここでもレトリックなのですね。

しかも痛快なのは、乙女がいったんはコーヒーをやめることをうけいれるようにして父親を婿探しに出かけさせておいて、実はそれは父親を追い出す作戦であったという点です。え、父親はどうなるの、って?連れてくる人にこっそり「コーヒーが好きですか」と聴いて、是なら承諾、非ならだめと言うだけです。父親にはその理由がコーヒーだなんて言いっこありません。もっともらしい理由をつけるだけです。しかし本当の理由は「コーヒーが好きかどうか」であるわけのですね。

こういったやり方は、私たちもわかっているようで果たしてできるだろうかと私は思います。意外と正直にやってしまうのではないだろうかと思います。しかしバッハは「こうしたら、もっと生きやすいですよ」と教えてくれます。そんなテクストが教会カンタータだけでなく、世俗カンタータでも多いのがバッハの作品なのです。

私がモーツァルトだけではなく、バッハの作品も好きなのには、こういった「必ずしも正直でないことこそ、正直に自分の主張を守ることである」という点にあるのは間違いないです。自分の信条をどう守ろうかという段になった時に、自分ならどうするのかということの材料を常に与えてくれます。

演奏面では、BCJですから文句ないでしょう。ただ、コーヒーカンタータの最後はあれ?と最初は思うかもしれません。余りにもさらりと終わるので。それを「なるほど」と思うには、やはり当時のコーヒーの受容史というものを紐解かないと難しいと思います。この演奏は実はこの二つの作品がとても深い内容を持つものだということを教えてくれるものでもあるのです。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第210番「佳き日、めでたき時」BWV210
カンタータ第211番「おしゃべりはやめて、お静かに」BWV211
キャロライン・サンプソン(ソプラノ)
桜田亮(テノール、第211番)
シュテファン・シュレッケンベルガ―(バス、第211番)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS CD-1411)



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