かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:BCJ バッハ教会カンタータ全曲演奏シリーズ18

今回のマイ・コレは、BCJのバッハ教会カンタータ全曲演奏シリーズの第18集です。1724年の復活祭のあたりで演奏されたカンタータが主になります。

復活祭って言われても・・・・・という方、多いはずです。はい、私もそうでしたから、気にしなくていいですよ^^日本人としてはまず、キリスト教における春の重要な祭日で、キリストの復活を祝うものと理解しておけば、少なくとも音楽を聴くときには問題ありません。

復活祭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD

ただ、第1曲の第66番「喜べ、心よ、退け、痛みよ」は通常カンタータが日曜日に演奏されるのとは異なり、復活祭の第2日、すなわち月曜日に演奏されたというのが特徴です。では、主日の日曜日は何を演奏したのかと言えば、ケーテン時代の旧作をそのまま使ったのです。そんなことをした理由は、その前の週の金曜日、1724年においては4月7日ですが、その日に「ヨハネ受難曲」が初演されたからなのです。

バッハは「ヨハネ」の初演で忙殺されており、新作までなかなか時間が取れなかったのです。そこで、主日は旧作をそのままつかい、月曜日と火曜日は旧作をパロディすることにしたのです。それがここに収録されている第66番と第134番「おのがイエスの生きたもう、と知る心は」の2曲なのです。

ということで、第1曲目の初演は1724年4月10日ということになります。もともとはケーテン時代の世俗カンタータで、歌詞だけを変えた「パロディカンタータ」です。まず堂々としたトランペットのファンファーレを含む合唱とデュエットを含む序曲で始まります。それが復活祭にふさわしい曲と言えますが、それだけではありません。復活祭だからこそ、キリスト教の聖なる数字、3にこだわっている曲です。第1曲は三部形式ですし、3曲ずつに分かれる、そのうちの合唱と2つのアリアは3拍子、他の3つはダ・カーポ形式でこれも3つに分かれるなど、「3」が満載です。その上、曲は長調

ここに、バッハがこの曲に込めた想いというものがはっきりと現われているのです。その上、内容としては二人の旅人がある時別な一人の旅人と出会い、キリストが復活したらしいということをその旅人から耳にし、困惑しているとその旅人がいにしえの予言は現実の出来事を表わしているのだというのです。それで二人は、その旅人がイエスであるということに気づくというものです。

日本人からすればそれは荒唐無稽であり、だからヨーロッパ人は・・・・・と言ってしまうところですが、バッハの教会カンタータはあくまでも殆どが説話をするための「レトリック」なのです。聖書に書いてあることを、いかにして現実の生活に取り入れ、信者として誠実に生きるのかがそのコアです。それはやがて、「歴史にどう学ぶのか」という意識に繋がっていくのです。そこは日本と違う部分で、おさえておく必要があります。

次に、第2曲目の第134番は次の日1724年4月11日に初演されたことになります。それにしても、たった5日間で数曲を演奏するとなると、ものすごい負担であったはずです。それは確かにパロディーカンタータでなければ、とても解決しなかったことでしょう。そしてこの曲もケーテン時代の作品の改作です。もともとは8楽章あったものを6楽章に縮め、歌詞も当日の説教に合うよう変えています。作詞者は第66番と同じだとされていますが、誰とはわかっていません。内容としては復活の賛美に終始しており、あまり評価されていませんがブックレットによりますとバッハ自身がそれほど難癖をつけていないことから、聖書からのレトリックは説教のほうで行ったのだろうと結論付けています。

こういった曲は何も珍しいものではありません。以前も幾つかもっと後のアルバムを「今月のお買いもの」コーナーでご紹介した時にも触れているかと思います。ですから、上で「バッハの教会カンタータはあくまでも殆どが説話をするための「レトリック」なのです。聖書に書いてあることを、いかにして現実の生活に取り入れ、信者として誠実に生きるのかがそのコアです」と述べたわけです。それが原理ではありません。

そして、わたしもそのブックレットの意見に賛成です。理由はシンプルで、いきなりレチタティーヴォで始まるからです。8曲あった曲をわざと6曲にしている、つまり序曲が失われていないということは、当時もいきなりレチタティーヴォで始まったことを意味します。つまり、最初に聖書による説教があったことを想像させるに十分です。

恐らく、こういった点を「神奈川県立図書館所蔵CD」でご紹介しているケーゲルは念頭に置いている可能性があります。そもそも、ケーゲルは合唱指揮者からキャリアが始まった指揮者です。バッハのカンタータが念頭にあっても、特段不自然ではありません。ただ、社会主義リアリズムによって、バッハのこのような曲とモーツァルトのミサ・ブレヴィスで抜けている部分との違いが理解できない、あるいは理解してはいけないといった状態であった可能性は否定できません。バッハのこの曲は説教であり、モーツァルトはそもそも記載がなくても慣習で歌うことになっていたという違いがです。おなじように見えてそれは全く違います。

最後の第67番「イエス・キリストを脳裏にとどめよ」は、復活節後の第1日曜日、つまり1724年4月16日に初演されています。この曲はようやく新作となります。バッハはここまで旧作でしのいできたわけですが、それにしても一週間で新作をたたき出すというのは、ものすごい仕事です。ヨハネは決していい加減な仕事ではありませんから・・・・・

ヨハネ受難曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2

そんななかで作曲されたこの曲は、音と歌詞との一体感というのが特徴の曲です。そもそもこの曲も復活節にふさわしい内容を持つ曲なのですが、まず最初の合唱が一種の動機になっており、さらにとどめるという意味のhaltに長音が付けられていることで強調を行っており、楽曲としても素晴らしいものになっています。こういった曲は後にモーツァルトのミサ曲やベートーヴェンの第九へとつながっていくのです。ベートーヴェンの第九のスコアを見ますと、ベートーヴェンが重要だと思う箇所には長音符が付けられていると以前述べたことがありますが、バッハのこの曲はそれに繋がる作品であるわけです。もちろん、この曲をベートーヴェンが参考にしたということではありません。こういった作曲技法が、ベートーヴェンにも受け継がれているということなのです。

さらに、第6曲目の合唱は、まるで天使が人間に天から語りかけるような印象を聴く者に抱かせるなど、音と歌詞の一体感でもって説教を印象付ける工夫が随所に見られます。

この3つのなかでは一番短い曲なのですが、実に聴きどころが満載です。第66番の冒頭がまるでオラトリオのような雰囲気を持っているため埋没しそうですが、よく聴きますとこの第67番もとても味わい深い曲です。

演奏面では、珍しくソプラノソロがいないという曲ばかりが並びました。この時期はたまたまそうなったのでしょう。実際、他の年ではソプラノを加えてアルトを抜くということもやっており、必ずしも女性ソリストがだめだったということではないかと思います。その代り、男声の美しいソリストを楽しむことができます。特に、テノール桜田亮は安定していまして、もはやBCJのかなめとも言えるだけの存在になっています(実際、彼の声は合唱の中でもよく聞こえてきます)。トランペットもとても素晴らしい演奏をしています。ちょっとアインザッツが気になる部分もありますが、全体を壊すようなものではなく聴いていて気持ちがわくわくしてきます。それにしても、こういったトランペットを聴きますと、バロックの音楽家というものの理解を果たしてきちんと私たちはしているのだろうかという疑問も沸いてきます。

今年鈴木氏がバッハ・メダルをもらった背景には、こういった人たちの支えがあってのことであり、私たちはそれを誇りに思いたいですし、私は誇りに思っています。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第66番「喜べ、心よ、退け、痛みよ」BWV66
カンタータ第134番「おのがイエスの生きたもう、と知る心は」BWV134
カンタータ第67番「イエス・キリストを脳裏にとどめよ」BWV67
ロビン・ブレイズカウンターテナー
桜田亮(テノール
ペーター・コーイ(バス)
島田俊雄(トランペット)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(キングレコード KKCC-2334)※BIS-CD-1251



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