かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:BCJ バッハカンタータ全曲演奏シリーズ17

今回のマイ・コレは、BCJのバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第17集です。ここから1724年のカンタータが登場します。

まず第1曲目が第153番「ご覧ください、愛する神よ」です。1724年1月2日に初演されたこの曲は、内容としては、苦難を耐え乗り越えることを説くものですが、構造的にはもっと注目すべき点があります。合唱団員のみなさーん、ちゅうもーく!

この曲は、第1曲はいきなり合唱で始まります。前奏なしなんです。これは難しい・・・・・

この時期、バッハは前年の待降節で3週間もの作曲期間を作り出さないといけないほど激務に追われていたほど、トーマス教会の音楽関係者たちは忙しかったことも有り、編成はとても簡素なものだったのですが、だからと言って前奏を抜かさなければいけない理由はありません。もしその理由をその激務に求めるとすれば、「演奏時間」としか言いようがありません。前奏を抜かせばその分、楽曲はコンパクトにできますから。

しかし、それも私としては理由として弱いと自分で言いながら思います。なぜなら、前奏なしで演奏することほど、出だしが合わせにくいことはないからです。となると、ある程度練習時間をとらないといけなくなるわけなのです。そのリスクを冒してでも、前奏なしにした理由は、あくまでも時間で考えるならば、バッハ自身の時間がなかったとしか言いようがないと思います。

つまり、それだけトーマス教会の楽団や聖歌隊は、優秀であったという証拠でもあるのです。ここは音楽史でつい私たちは盲点になるんですが、演奏技術はバロックの時代であってもけっこう高いのです。楽器の技術が現代より劣っているだけであって、演奏はそれほど下手ではないだろうというのが私の推測です。でなければ、前奏なしの楽曲を、とても忙しい時期に持ってくるわけがないのです。

特に、バロックの時代は、ソリストの演奏技術を魅せる曲、つまり協奏曲が多く作曲された時代でもあったということを忘れてはなりません。ヴィヴァルディが残している厖大な協奏曲を顧みれば明らかなように、オケとソリストの会話を楽しむのがバロック期の作品ですし、それだけ実はソリストの実力が高かった時代でもあるわけです。その伝統が、いずれ古典派やロマン派へとつけ継がれて、さらなる発達を経てソナタという形へと結実していくわけです。

さて、この曲をアマチュア合唱団の方はどれだけ一発で合わせられますか?それは実に難しいと私は思います。よほど息が合っていないと難しいですし。前奏がない曲、たとえば佐藤眞の「蔵王」を歌ってみますと、この曲がいかに難しいかが分かると思いますので、「蔵王」のような旋律的にはそれほど難しくはないが、前奏がない曲を選んで演奏してみるというのも、それがうまくいかなくてもバロックの作品の素晴らしさを気づくことに繋がるので、是非ためしてみてほしいと思います。勿論、BCJは一発です!

次に第154番「わが最愛のイエスは失われぬ」です。1724年1月9日の初演です。ね、第153番の1週間後でしょ?それを用意して練習する時間が必要なわけですが、オルガンはバッハ自身であるわけですよ。なぜ第153番が前奏なしであるのかは、そこから推測することができます。12歳のイエスが両親と神殿へ行くのですが、神学者との論争に夢中になっているうちに、両親は家へ帰宅しようとしたら、イエスがいないことに気が付いて、探していたら神殿でイエスがいぶかしむマリアに「私が自分の父の家にいるということを知らなかったのですか」と言う内容です。

これはとてもキリスト教なので、私たちとしては「両親」と「父」というものを、親等でいう「親」でくくるべきではないと思います。これは信仰における「父」、つまり神のことであり、両親とはまたべつな次元なのです。その点を説くのがこの曲の内容なのですから。ただ、この曲には前奏があります。ということは、歳が明けていくにつれて、教会の仕事が落ち着いてきていることを示します。そしてここに、キリスト教におけるクリスマスから新年というのが、いかに日本においては正月そのものであるのかが理解できる点でもあります。

第3曲目が第73番「主よ、御心のままに、私を定めてください」です。1724年1月23日ライプツィヒで初演された曲で、まあ、乱暴に言えば内容は「信じる者は救われる」というものです。しかし、たとえとして天然痘患者をだすなど、内容は決して軽薄ではなく、信じることによって道が切り開かれるということを言いたい曲です。そんな曲でバッハはなんと、「ライトモティーフ」を使っています。それは「神のみ心のままに」という意味を持つもので、それを信念として持つかどうかが、この曲では問われるわけです。私はキリスト者ではないですが、実際に自分が信ずるものをどこまで信念として持ち続けることが出来るのかどうか、考えさせられます。構造的には、冒頭は合唱とアリアが交互にでるという珍しいものになっています。その分、構造的に引き締まっている点は注目です。

第4曲目が第144番「取れ、己が取り分を。そして去れ」です。1724年2月6日に初演されました。この曲は形式的よりもその内容に特徴があります。これは仏教でいえば「足るを知る」と全く同じことを取り扱っているからです。ブドウ園で働く労働者が賃金で不満を言いますが、神は仕事の内容をお見通しだから、それで我慢しなさいということを諭す曲です。ただ、これは拡大解釈をしてしまうと資本家の声は神の声なんて意見が出そうですが・・・・・プロテスタントなのでそこまで資本家に権限を与えていません。その給与が適正かどうかを審議することは大切なことだと私は考えます。この曲ではそういった資本家と労働者との対立は抜きとして、自らの働きというものを真摯に振り返りなさいということを諭すためにあるのですから。

ですから、「足るを知る」必要があるわけです。自らの能力とその結果をうけいれて、それに合わせて生きる。仏教、特に禅宗で言われる言葉ですが、しっかりとキリスト教でもあるわけです。ただ、禅宗がそうであるように、資本家よりの説教であることは間違いありませんが・・・・・一方で他の説教では資本家も対象になっていますから、これだけで資本家保護の宗教だとか言わないように!(逆にキリスト教は労働者保護だという意見も同様です)

今回は第5曲目まであるんですねー。その第5曲目が第181番「軽佻浮薄の霊どもは」です。1724年2月13日(これも第144番の1週間後)にライプツィヒで初演された作品です。自分の心にどれだけ正しい心が宿っているかを認識させるために、「種まく人」の喩を使い、神の言葉を種に、人の心を土壌に、土壌以外の種が育つ環境を「軽佻浮薄の輩」に例えたのです。植物を育てるとよくわかる喩ですね。当時のドイツの社会を知り尽くしたうえでの喩だと思います。これは何もキリスト教だけでなく、あらゆる宗教、主張に限らずビジネスにも応用できるたとえだと思います。構造的には、最終曲はパロディになっているようで、何か他の曲からの転用と考えれれているようです。さらに楽譜も不完全で、それがなぜかはわかっていませんが、もしかするとこの時期のバッハの忙しさをうかがわせるように思うのは私だけなのでしょうか。

さて、1724年はまずほとんどが新作で来たわけで、その間1月にまた2週間程度の期間が開いています。ここでもバッハはおそらく新作を作曲する時間を稼ぐために旧作を使ったと考えていいでしょう。少なくとも、1723年以前に作曲したストックがあるわけで、それに手を入れることでまた新しいものが出来上がるわけです。バロックとはそいった作曲が行なわれていた時代ですから、特に珍しいことではありません。そのことで新作が生まれる時間をつくりだしていたわけで、それはやがて「ヨハネ受難曲」へと結実します。

ヨハネ受難曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2

ヨハネは1時間40分ほどかかる大曲であり、その作曲時間も作り出す必要があります。そのために直前どういった作品を生み出し、それはどんな構造を持つのかを、この5つの曲は教えてくれます。各々せいぜい10分程度しかない曲ばかりで、じっさい5曲入っているにも関わらず、このアルバムの総時間は67分です。それが、この時期のバッハの忙しさとその中でいかに時間を作ることに苦労したのかがうかがい知れるように、わたしには受け取られます。

演奏に触れるのはどうしましょう・・・・・BCJが素晴らしいのは、世界で認められたことです。最近、バッハメダルを授与されたことを鑑みれば当然でしょう。ここでは再びアルトがカウンターテナーに戻っているということが注目点でしょう。確かに、ロビン・ブレイズはこの後BCJのアルトとして欠かせない存在になっていきますし、このアルバムでも自然で柔らかな発声を聴かせてくれます。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第153番「ご覧ください、愛する神よ」BWV153
カンタータ第154番「わが最愛のイエスは失われぬ」BWV154
カンタータ第73番「主よ、御心のままに、私を定めてください」BWV73
カンタータ第144番「取れ、己が取り分を。そして去れ」BWV144
カンタータ第181番「軽佻浮薄の霊どもは」BWV181
野々下由香里(ソプラノ)
ロビン・ブレイズカウンターテナー
ゲルト・テュルクテノール
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(キングレコード KKCC-2332)※BIS-CD-1221

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地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。