かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:リスト ピアノ作品全集22

今月のお買いもの、2枚目はナクソスから出ているリストのピアノ作品全集の第22集です。ジャン・デュベのピアノです。

え、なんでいきなりリストなの?と足しげく私のブログに通っていただいている読者の方はお思いかもしれません。ええ、CDでリストを取り上げたことは今まで一度もありませんから。

ただ、伏線はすでに提示しています。リストのピアノ協奏曲を神奈川県立図書館で借りています。そして、その後図書館からは実はこのナクソスのシリーズをあるだけ借りてきているのです。

図書館のも順番にご紹介している関係でまだエントリを立てていませんが、実は昨年の11月ごろから図書館から借りてくるものが最近までリストのピアノ曲だけという状態が続いていました。

そのきっかけになったのは、あるサロンで聴いた「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」なのです。この曲が単独で入っているものは皆無と言ってよく、銀座山野楽器や関内プレミア・ムジークでも見つけることが出来なかったのです。

そこで、最後の希望として通っている神奈川県立図書館の棚を覗いてみたら、あったのです!このナクソスのシリーズでのみ。

ならば、リストのピアノ曲ナクソスで一通り集めてみようと思い立ち、借り始めたのですが、図書館にないのが最近出たものと、第22集と第23集だったのです。そこで、今月銀座山野楽器で買い求めたのがこの第22集だったというわけです。

今でも続編が出続けているこのシリーズ、一つだけ残念なことは演奏のピアニストが幾人かいるということなのです。できれば一人の演奏で聴くことが出来ればなと思いますが、幾人かいることの利点もあります。それは、リストの作品を幾人もの視点から眺めることが出来るという点です。

特に、私のように長年オーケストラ曲に親しみをもちピアノ曲はそれほど聴いてこなかった人間にとって、偏らない視点というのはとても意義のあるものです。偏ることが決して悪いことではないのですが、ピアニストによっては作品に優劣をつける場合もあるからです。

それが、聴き手に素養がありなぜそのような優劣がついているのかが分かれば問題ありません。しかし、素養がない場合、無批判に「この作品は劣っているから」という理由だけで知りもしないくせに駄作の烙印を押す可能性もあるのです。それは私は、図書館で借りてきた経験から言って広いクラシックという芸術の海を航海するうえでとても危険で、もったいないことだと思います。そこにどんな楽しみや喜びが隠れているか分からないからです。

いわば、航海でいえば羅針盤が狂った状態になるわけです。ナクソスのこのシリーズは狂いそうになる羅針盤を常に正常に戻してくれる役割を持っていると思います。

さて、この第22集はリストが作曲したバラードとポロネーズ、そして巡礼の年という面白い組み合わせになっています。恐らくピアノ曲が好きな聴衆からは「なんでそんなもの買ったの?」と言われることでしょう。リストのバラードとポロネーズは単にショパンのまねではないかと言われかねないからです。

そう、バラードとポロネーズと言ったらショパンです。二つとも基本的にポーランドのリズムが元ですから。それをリストがなぜ作曲したのか。それは、リストがショパンに尊敬の念を持っていたからなのです。

フランツ・リスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

本当は図書館の音源を紹介しながら説明するのが一番いいのですが、リストという作曲家は実に多くの作曲家と親交を持ち、影響を受けています。その上、そういった作曲家たちに影響を与えてもいます。リストがピアノ曲へ編曲した他の作曲家の作品は数知れず、このナクソスのシリーズでも一枚では収まりません。その代表例がベートーヴェン交響曲の編曲になるわけですが、このCDには彼自身の作品が並んでいます。

確かに、リズムからすれば模倣かもしれません。2つのポロネーズも、バラードの第1番と第2番もリズムだけをみれば模倣かもしれません。しかし、旋律はCD後半の「巡礼の年」に決して劣りません。私はこの作品はショパン・リスペクトと思っています。もし、リストがショパンが好んで作曲しているものをパロディとして自分のものとして作曲したとするならば、模倣どころかバッハやルネサンス期のミサ曲を念頭に全く独自の世界へ構築しなおしたと言えるからです。

それは明らかに、ショパンの作品に尊敬の念を持っていたからと言えるでしょう。ショパンがはじめバッハに範をとって作曲をしたことを思い出してみますと、なぜリストが二つのポーランドのリズムと旋律を持つ作品を書いたのかが分かるのではないかと思います。単なる模倣などではないのです。

パロディという意味が、我が国では誤解を受けているような気がします。それは今日お笑いが人気であることにもよるのでしょう。お笑いなので面白いものになりますがお笑いもじつは基本的にはパロディはクラシックと同じ精神を持っていますし、ハリウッド映画もそうです(「ホット・ショット」などがその典型)。バラードとポロネーズは決していい加減な模倣作ではなく、リストの感動が作曲させたのだと私は思います。あくまでもパロディとは単にある作品をアレンジして使うこと、なのですから。ハリウッド映画やお笑いはそのアレンジが「笑わせること」であるだけなのです。

これを語らせると長かったのが、映画評論家の水野晴男さんでした。パロディ映画をテレビで放映するときには、パロディの意味を解説してくれたものです。その時に必ず出る言葉が「尊敬」だったことを思い出します。

そう、笑わせる映画なのに、その根底に流れているものは尊敬、つまりリスペクトなのです。リストのこの作品ではそれが実にショパン的であるのにどこかショパンではなくやっぱりリストであるという点にこそ現出しています。

これは古典派でいえば、ハイドンモーツァルトの関係に似ています。二人は相互に影響しあい、ハイドンモーツァルトの影響を受けた交響曲を作曲していたことが思い出されます。モーツァルト弦楽四重奏曲ハイドンの影響を受けた「ハイドン・セット」を作曲し献呈もしています。パロディとまでは言えないかもしれませんが、近い精神であることは間違いありません。少なくともリスペクトの念がなければ作曲も献呈もしません。

演奏者のジャン・デュベは淡々と、時にはダイナミックに演奏することで私たちに語りかけます。リストのバラードやポロネーズは、そんな低評価でいいのですか?と。確かに表面的にはショパンの影響下にありますけれど、しかしそれはショパンの模倣なのですか?もし模倣なのだとすれば、それはリストの後の作品への影響をどう考えますか?と、聴き手に問うているのです。

リストが超絶技巧へと走った理由は、ショパンではなくむしろパガニーニがきっかけだったと言われています。確かに、ショパンは「ピアノの詩人」と言われるだけに、表面的な超絶技巧ではなく、音楽の内面を追求した作曲家でした。もしリストが、こういった模倣作とも取られかねない作品をショパンの音楽の本質を学ぶために作曲したのだとすれば・・・・・・

私たちが考えているリストという作曲家のイメージはがらりと変わってしまうでしょう。いや、人によってはガラガラと崩れ落ちると言っていいでしょう。後年の、たとえば「クリスマス・ツリー」や「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」などを聴いてしまえば・・・・・特にこの二つに結びつくのが、私はバラード第1番ではないかと思うのです。



聴いているCD
フランツ・リスト作曲
2つのポロネーズS223/R44
バラード第1番変ニ長調S170/R15
バラード第2番ロ短調S171/R16
巡礼の年第1年「スイス」から第4曲 泉のほとりでS156/R8
スイス風の3つの小品S156a/R8
ジャン・デュベ(ピアノ)
(Naxos 8.557364)



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