かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:BCJバッハカンタータ全曲演奏シリーズ50

今月のお買いもの、ようやく今月のものをご紹介することが出来ます。まず1枚目はBCJのバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第50集です。

もう50枚になったのだなあと、自分でも感慨深いものがあります。振り返れば、初めて聴きに行ったヨハネから10年以上。もう長い付き合いになりました。

さて、その第50集に収録されているのは、第149番、第145番、第174番、そして第49番です。作曲年では1729年となります。

まず第149番「喜びと勝利の歌声は」です。直訳すれば「喜びと勝利を持って人は歌う」ですが、1729年9月29日に初演と推定されています。推定という理由は、この曲が筆写譜のみで伝えられているからです。ルネサンス期の「パロディミサ」の系譜を引く曲でして、第1曲目に世俗カンタータであるBWV208の終結合唱を使っているからです。こういった曲を「パロディ」と言います。

現代では主にハリウッド映画の影響でパロディとはお笑いと受け取られることが多いのですが、そのハリウッドもそうですが、そもそもパロディはもともとをそのまま別のもので使うことを意味していまして、このカンタータでも同様です。このカンタータでは元々から楽器を一部変更しさらに使用楽器を加え、移調して使っています。全部で7曲からなりますが、構造としては第4曲目を中心点として事実上対称するようになっています。天使ミカエルが戦いに勝利した、そのことを人が賛美する内容で、それを冒頭で表すために自分の狩のカンタータから転用したわけなのです。

映画好きな方は、私はぜひともバロックルネサンスの音楽に触れることをお奨めします。きっと「あ、これあの映画でも使っていた手法だ!」と、次々に発見することでしょう。こういったことは後の時代の音楽でもやられています(サン=サーンスの「動物の謝肉祭」など)。

動物の謝肉祭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%AC%9D%E8%82%89%E7%A5%AD

「動物の謝肉祭」は子供向けとみられがちですが、実はこういったバロックルネサンスの曲を念頭に置いていることは明らかなのです。ぜひともドイツものではないからとはいわずに聴いてほしいなと思います。

次に、第145番「我は生く、わが心よ、汝の憂いは喜びと化さん」ですが、この曲も筆写譜によってのみ伝えられているため初演日時は推定でして、一応1729年4月19日とされています。イエスの復活を讃える曲ですが、とても短い曲です。5曲からなる曲ですが、最近までは7曲で伝えられたようです。BCJは新全集にのっとり5曲で演奏しています。

3曲目は第174番「われいと高き者を心を尽くして愛したてまつる」です。この曲は初演日時が1729年6月6日とはっきりしています。第1曲目は実は「ブランデンブルク協奏曲第3番」第1楽章でして、シンフォニアとして使われています。つまりこれもパロディであるわけです。こう見ますと、モーツァルトがなぜ自分の作品を使いまわし、ロマン派においてなぜ循環形式が成立したのかが理解しやすいように思います。ブランデンブルクの第3番第1楽章はここではさらに管楽器が加えられています。対称構造とまでは言えませんが、第3曲の前後はアリアとなっています。対称構造を発展させて、自由に使っているように思われます。これは第2曲目の第145番でも同様となっています。

ここまではピカンダー年巻に収められている曲が来ていますが、それだけではなく、私にはパロディの曲を集めているように思います。第145番にはパロディがないのですが、実は新全集が削除した部分にはテレマンカンタータから採られた合唱曲が含まれており、それを踏まえればすべてパロディが含まれているあるいは含まれていた楽曲が収められていると言えるでしょう。こういった編集をする点は、BCJらしいなと思います。

最後の第4曲目は第49番「われは行きて汝をこがれ求む」です。これだけは1726年11月3日の初演と、初演年月日が上3曲とはずれています。しかしこの曲でもパロディが使われており、第1曲目はチェンバロ協奏曲ホ長調BWV1053の第3楽章を転用(独奏楽器はオルガンへ変更)しており、しかもそのチェンバロ協奏曲自体が恐らくケーテン時代のオーボエ協奏曲であるとされているのです。この点だけを見ても、モーツァルトがなぜ自作を使いまわしたのかが、うかがい知れるというものです。

モーツァルトはバッハの音楽に触れる前から使いまわしをしていますが、頻繁にするようになるのはやはりバッハの音楽に触れてからです。特に、カール・フィリップ・エマニュエルに出会ってからその傾向が顕著です。音楽自体はいちどすたれても、後世の様式によってバッハは確実に生き続けているとは思われませんでしょうか。それを自らの音楽によりその時代の様式にのっとって行ったのがモーツァルトだったとしたら、我国におけるモーツァルト像というものは再考を迫られるのではないかと思います。演奏家はおそらく知っていることだと思いますが、私たち聴き手に、そのイメージの再考を迫るものだと思います。

内容的にもこの曲は考えさせられることが満載なのです。この曲は「マタイ伝における「王の婚宴」を背景とし、雅歌の表像を借用しつつ、イエス(バス)と魂(ソプラノ)の霊的な交流を描く」(モーツァルト事典P.73)ものですが、それはまるで女性が教会で祈りながらイエスと対話するかのようです。ある意味ドラマティックです。

それだけではなく、この曲に「こがれ」という言葉が使われている点にも私は注目しているのです。この言葉、��田三郎の合唱組曲でもよく使われる言葉でして、特に以前取り上げました「水のいのち」の第3曲目「川」で頻繁に使われる言葉でもあります。

水のいのち
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1

その関連で考えますと、この「こがれ求む」というのは、楽曲は美しいものですがとても深い意味を持っていると考えてもいいでしょう。この点からも、バッハを聴くことの重要性を教えられます。バッハを聴くことが、現代混声合唱曲への理解につながるとは!

全く、いつもBCJのアルバムには、教えられることばかりです。



聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第149番「喜びと勝利の歌声は」BWV149
カンタータ第145番「我は生く、わが心よ、汝の憂いは喜びと化さん」BWV145
カンタータ第174番「われいと高き者を心を尽くして愛したてまつる」BWV174
カンタータ第49番「われは行きて汝をこがれ求む」BWV49
ハナ・ブラツィコヴァ(ソプラノ)
ロビン・ブレイズカウンターテナー
ゲルト・テュルクテノール
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS SACD-1941)



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